<- カバラ・ライブラリー
続きを読む ->
カバラ・ライブラリー・ホーム / ラバシュ / 記事 / クリエーターへの務めにおいて契約を結ぶとは

2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン6「テン(十人)における契約の締結」のメインテキストです。

※2026年2月15日更新

クリエーターへの務めにおいて契約を結ぶとは

1987年の記事 第31番

 

聖句にはこう書かれています。

「汝を汝の神、クリエーターの契約のうちに入らせるためである。すなわち、今日汝の神、クリエーターが汝と結ぶ契約である」。

ラシは「契約のうちに入らせるため」とは「通り過ぎることによって」という意味であると解釈しています。

「契約を結ぶ者たちはこのようにしていた。こちらに仕切りを設け、あちらにも仕切りを設け、その間を通ったのである」。

さらに同じ箇所にこう書かれています。

「われは、汝らとだけこの契約を結ぶのではない。今日ここで、われらと共に立って、われらの神、クリエーターの前にいる者たちと、そして今日ここにわれらと共にいない者たちとも結ぶのである」。

これについて、以下の点を理解すべきです。

1) クリエーターへの務めにおいて「契約を結ぶ」とは何か。すなわち、契約を結ぶことが私たちに何を与え、それによって務めにおいてどのような変化がもたらされるのか。

2)ラシが解釈したように、契約を結ぶ者たちはこちらに仕切りを設けたというが、これは務めにおいて何を示唆しているのか。

3) 「今日ここで、われわれと共に立っている者と、今日ここにいない者」とは、務めにおいて何を示唆しているのか。この二つの時(状態)とは、務めにおいて何を意味するのか。

私の父であり師であったバール・ハスラムは、「契約を結ぶこと」の利点についてこう語っています。

一見すると、それは余計なことのように思われる。なぜ彼らは契約を結ぶのか。彼らはすでに、互いに愛し合うべきであるという同意に達している。すでに互いに愛しているのなら、契約を結ぶことで、何が付け加わるのか。

バール・ハスラムはこう言っています。時には、人が相手を見て「自分に対して正しく振る舞っていない」と感じる状態になることがある。そのとき、人は相手を憎むべきだと思うようになる。

しかし、相手と契約を結んでいるなら、その意味は、たとえ相手が自分に正しく振る舞っていないように見えても、理性を超えて進み、「私は彼と契約を結んだのだから、その契約を破らない」と言うことである。

したがって、契約は現在のためのものではなく、未来のためのものです。互いの間の愛が冷める可能性があるからこそ、未来も今と同じであるようにするために契約を結ぶのです。

さて、トーラーとミツヴォット(戒律)における務めの本質は、リシュマ(その自体のために)へと至る道を歩みはじめるときにあります。すなわち、人がその務めを始めるとき、それはロー・リシュマ(それ自体のためではない)からはじまります。賢者たちが言ったように、「人は常にロー・リシュマでトーラーに携わるべきであり、ロー・リシュマからリシュマに至るからです」。

このため、クリエーターへの務めのはじまりには熱意がありました。なぜなら、トーラーとミツヴォット(戒め)を守ることによって人生の幸福に到達できると見ていたからです。そうでなければ、はじめはしなかったでしょう。

ゆえにクリエーターへの務めのはじまり、すなわちまだロー・リシュマで従事している間は、務めをなすたびに後に受け取る報酬を見ているため、働く力を所持しています。

これは、物質的な世界においても同様です。人は、自分の労働に対して報酬を受け取ることが分かっている場所で働くのを常とします。自分の利益のためでない限り、無償で働くことはできません。その仕事から自分の利益が生じると見ているときにのみ、人は熱意と意欲をもって働く力を持つのです。なぜなら、そのときには仕事そのものではなく、報酬を見ているからです。

もし人が、前の雇い主のもとで働いていたときの二倍の報酬を受け取れると理解しているなら、仕事そのものは問題になりません。つまり、報酬の大きさに応じて、仕事はより容易に、より小さなものとなるのです。

これをクリエーターへの務めの道に当てはめるなら、「契約を結ぶこと」とは次のように解釈されます。人がたとえロー・リシュマであっても、クリエーターへの務めを自らに引き受けるときは、クリエーターと契約を結ばなければなりません。すなわち、熱意があってもなくても、クリエーターに仕えるという契約です。

しかし、熱意が何によるものなのかを理解する必要があります。それはただ報酬にのみ依存しています。多くの報酬が与えられるときは、クリエーターへの務めに対する熱意は途切れません。しかし報酬が疑わしくなると、その熱意は去り、休止へと移ります。つまり、そのときには、休止のほうにより大きな味わいを感じるのです。

ついにはこう言うに至ります。

「私はこの務めを放棄する。この務めはやりたい者がやればよい。これは私のためのものではない」。

そして「契約を結ぶ」とは、たとえロー・リシュマ(それ自体のためではない)における務めであっても、それを始めたときのことです。そのときには、クリエーターへの務めに対する欲求があります。そうでなければ、いったい誰がその人をクリエーターへの務めという仕事に入るよう強いるでしょうか。

それゆえ、人は今、契約を結ばなければなりません。そしてこう言うべきです。

「たとえ将来、下降のときが来るとしても、すなわち務める意欲がなくなるときが来ても、それでもなお、自分の欲求を顧みず、あたかも欲求があるかのように務めることを自らに受け入れる」と。

これが「契約を結ぶ」と呼ばれるものです。

しかし、人がなぜ下降の状態に至るのかを理解する必要があります。

人が物質的なことで報酬を受け取るために働く場合、下降や上昇というものがあるでしょうか。ではなぜ、クリエーターへの務めにおいては上昇と下降が見られるのでしょうか。

この問題は二つの観点から理解すべきです。

1)ロー・リシュマの状態において

ロー・リシュマの状態、すなわち報酬を受け取るために務めている場合であっても、その報酬は信仰という面においてのみ理解が可能です。なぜなら「ミツヴァ(戒律)の報酬はこの世にはない」からです。

すなわち、ミツヴァの報酬はこの世で受け取ることなく、来世で受け取るのです。「今日それらを行い、明日その報酬を受け取る」と書かれているとおりであり、「明日」とは来世を意味します。

報酬の基礎は信仰に依存しています。『アヴォート』第二章に、「あなたの雇い主は忠実であり、あなたの働きの報酬を支払ってくれる。そして義なる者の報酬は来たるべきときに与えられることを知れ」と書かれているとおりです。

信仰に関しては、上昇と下降があることは知られています。なぜなら信仰とは、理性を超えて信じることだからです。

すなわち、人は時に、理性を超えて進む力を持つことがある、ということです。そこでは信仰が理性と矛盾しています。たとえば、仮に信仰の二十パーセントが理性に反しているとして、その二十パーセントにおいては克服することができます。

しかし時には、変化が生じたことに気づきます。すなわち今は、信仰が三十パーセント理性と矛盾していると感じますが、その三十パーセントにはまだ耐えられる状態になく、克服した信仰の状態で歩む力がありません。

それゆえ、そのときには、人の中で信仰が輝いていた状態から、下降せざるを得なくなります。

これが人に上昇と下降をもたらす原因であり、それは各自の克服の力の程度に依存しています。しかし物質的な報酬においてはそうではなく、報酬に関して信仰は問題になりません。したがって、物質的な仕事において下降があるとは言えません。なぜなら、報酬がこの世にあり、信仰を必要としないからです。

2)リシュマの状態において

リシュマの状態とは、務めに対する自分の働きに対して、いかなる見返りも求めない状態です。ここでも同じく、下降の原因は、務めのすべてが信仰を基盤として築かれていることにあります。ただし違いは、問題となるのが報酬ではなく、雇い主であることです。すなわち、どの程度その雇い主を信じているか、クリエーターに仕えることにどれほどの価値があり、それがいかに重要であるか、という点です。つまり、王の中の王に仕えることがいかに大きな特権であるか、ということです。

言い換えれば、務めに対する報酬とは、クリエーターの偉大さに対する信仰の度合いに応じている、ということです。なぜなら、創造の本質として、人は重要な人物に仕えるとき、大きな喜びを感じるからです。

よく知られた例えのように、もし高名なラビが自分の荷物をタクシーまで運んでほしいと頼むなら、ポーターは当然そのための報酬を受け取るでしょう。しかし、もしそれが弟子であれば、何の報酬も受け取らないでしょう。なぜなら、ラビに仕えるその行為自体がその弟子の報酬であり、それ以上は何も必要としないからです。

したがって、「あなたの仕事の主人は信頼できる」とは、その人がクリエーターの偉大さをどの程度信じているかという信仰の度合いが、報酬の大きさになります。つまり、報酬はクリエーターの偉大さをどれほど信じているかという、信仰の度合いによって測られるのです。

つまり、人がクリエーターはまことに偉大であると信じているなら、その報酬もまた大きいものになります。そして、クリエーターに対する信仰がそれほど大きくないなら、当然、報酬もそれほど大きくありません。以上のことから、リシュマで務めるにしろ、ロー・リシュマで務めるにしろ、すべての基盤はただ信仰にあることがわかります。

ただし違いは、次の点にあります。ロー・リシュマにおいては、信仰が「報酬」に向けられていますが、リシュマにおいては、信仰が「誰に仕えているのか」に向けられています。すなわち、喜びの大きさはクリエーターの偉大さに依存しています。賢者たちが(『アヴォート』第二章)で、「ラビ・エラザルは言った、『あなたが誰の前で労しているのか、そしてあなたの務めの主人は誰であるのかを知れ。その方はあなたの行いの報酬を支払われる』」と言っているように。

これは前述のとおり、あなたが務める主人の偉大さを信じなければならない、ということです。なぜなら、務めに対する報酬が支払われるかどうかが、これにかかっているからです。すなわち、報酬の大きさは、あなたが務める主人、すなわちクリエーターの偉大さに依存しています。言い換えれば、人が仕えるのが町で最も偉大な者か、国で最も偉大な者か、世界で最も偉大な者かによって、喜びに違いがあります。そして、それによって報酬が測られます。すなわち、報酬は王の偉大さに応じて決まるのです。

信仰を基盤にする以上、ここには上昇と下降があります。なぜなら、人が揺るぎない信仰を得ていないかぎり、必ず上昇と下降があるからです。上昇と下降があるなら、両者間の愛が冷えるときが来ることもあり得ます。ゆえに、いま、務めのはじまりにおいて、天の王国のくびきを自らに受け入れ、契約を結ぶのです。それは、身体がクリエーターに仕えることに同意しようとしまいと、すべてを自らに引き受け、いかなる変化も生じさせないようにするためです。その代わりに、「私は一度語った。私は変えない」と言います。そして、務めはじめるときに契約を結び、自らに受け入れたことに基づいて、理性を超えて歩むのです。

これによって、ラシが「契約のうちに入らせるため」とは「通り過ぎることによって」と解釈したことが理解できます。

「契約を結ぶ者たちはこのようにしていた。こちらに仕切りを設け、あちらにも仕切りを設け、その間を通ったのである」。

これは、前述の道に従って次のように解釈できます。契約を結ぶ者たちは、時としてこちら側に仕切りが生じ、すなわち一方を隔てる仕切りが現れ、またあちら側にも仕切りが生じ、もう一方にも隔てる仕切りが現れるときが来ることを示唆していたのです。

すなわち、たとえ両者の間にあった愛を隔てる仕切りが生じたとしても、それでもなお、いまこのときに、自分たちを互いに切り離さないことを引き受けるのです。そして、自分たちが結んだ契約を思い起こし、これによって、その契約が破られない可能性が生まれます。「その間を通る」とは、両者間に生じた分離を乗り越えて進む、という意味であり、すべては彼らが契約を結んだ力によります。

そして、クリエーターへの務めにおいては、その解釈は次のようになります。人はクリエーターと契約を結ぶ義務があります。すなわち、いままさに務めのはじまりには、確かにクリエーターへのある種の愛があります。そうでなければ、いったい誰が人に、今、天の王国の受容のくびきを引き受けさせるでしょうか。ゆえにいま、クリエーターと永遠の契約を結ばなければなりません。すなわち、たとえ、クリエーターへの愛が自分のうちで冷えてしまったと感じるときが来たとしても、クリエーターと結んだ契約を思い起こすのです。

クリエーターへの務めにおいて結んだ契約において、人とクリエーターの愛が冷めることはあり得ます。しかし、クリエーターの愛が冷めるなどと、どうして言うことができるのでしょうか。すなわち、結ばれた契約は両者に適用されるため、両者に下降があることになりますが、クリエーターに変化や下降があるなどとどうして言えるのか、ということです。

私の父であり師であったバール・ハスラムは、人とクリエーターにおいて「水に顔が顔を映すように、人の心は人に映る」というふうに働く、と言いました。彼は、次の箇所(箴言 第27章)について解釈しました。

「今、もし私があなたの目に恵みを見いだしているのであれば、どうかあなたの道を私に知らせてください。そうすれば私はあなたを知り、あなたの目に恵みを見いだすでしょう」。

そして、バール・ハスラムは以下の問いを立てました。モーセは、「もし私があなたの目に恵みを見いだしているのであれば」と言ったが、どこからそれを知ったのか。そして、彼は答えました。その箇所より前に「あなたは言われた、『私はあなたを名で知っている。また、あなたは私の目に恵みを見いだした』」と書かれているからである。

ここからモーセは、自分がクリエーターの目に恵みを見いだしていることを知ったのです。なぜなら、クリエーターがモーセの目に恵みを見いだされたからであり、これは「水に顔が顔を映すように、人の心は人に映る」という原則(箴言 第27章)によります。

以上に基づいて、次のように解釈できます。愛が人のうちで冷え、自分は下降の状態にあると感じるとき、すなわち、務めのはじまりに持っていたほどのクリエーターへの愛が今はないと感じるとき、人はクリエーターもまた自分を愛しておらず、自分の祈り、すなわち自分がクリエーターに求めていることを聞いておられない、と感じるようになります。

これが人にさらに大きな下降をもたらします。なぜなら、「あなたはすべての口の祈りを聞かれる」と書かれていることに、疑いを抱くようになるからです。そして、クリエーターは被造物とのいかなるつながりもないと考えるようになり、これがまたさらに大きな下降を引き起こします。その結果、信仰が次第に弱まるにつれ、ますます大きな下降を経験するのです。

したがって、クリエーターには何の変化もないにもかかわらず、人は「水に顔が顔を映すように」という理由から、そのように感じます。そしてこれは、スピリチュアリティにおけるすべての変化は、すべて受け手の側に応じている、という原則によります。

以上によって、私たちが問うた、「今日、われわれと共にクリエーターの前に立っている者」が、クリエーターへの務めにおいて何を意味するのか理解できます。契約を結ぶとは、人が今日、クリエーターの前に立っているとき、すなわち上昇のときにある場合です。しかし、たとえ「今日、われわれとともにここにいない者」と呼ばれる下降のときが来たとしても、すなわち自分が「われわれの神、クリエーターの前に」立っていると感じない状態であっても、それでもなお、以下のことを引き受けます。それは、理性を超えて何ものも顧みず、契約を結んだことを思い起こすことを自らに引き受け、それを「揺らぐことのないもの」としていく、ということです。