1984年の記事 第17番 第2部
2026年7月2日更新(全文)
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友が集まるときには、まず集会の順序があります。すなわち、皆がそれぞれ可能な限り、友の集まり(社会)の重要性について語るべきです。つまり、その社会が自分にどのような利益をもたらすのかについて話すのです。言い換えれば、その社会によって、自分一人では得ることのできない重要なものを得られると期待するなら、その期待の大きさに応じて社会を重要なものとして評価することになります。
これは、賢者たちが述べたことに似ています(『ブラホート』32頁)。
「ラビ・シムライは説いた。『人は常にまずクリエーターを賛美し、その後で祈るべきである』これはどこから学べるものなのか。モーセからである。『私はその時、主に願い求めた』と書かれており、その後に『主なる神よ、あなたはあなたのしもべにあなたの偉大さを示し始められました』とある。そして、さらに『どうか私を渡らせてください。そしてあの良き地を見させてください』と書かれている」
まずクリエーターへの賛美を整えなければならない理由は、世の常として、人が誰かに何かを求めるときには二つの条件があるからです。
第一に、その人が自分の求めるものを持っていることです。たとえば、裕福で能力があり、その豊かさや栄光によって広く知られている人であることです。
第二に、その人が善良な心を持っていることです。すなわち、他者に与えたいという願いを持っていることです。
そのような人に対してなら、頼みごとをすることができます。そのため、賢者たちは「人は常にまずクリエーターを賛美し、その後で祈るべきである」と言ったのです。
つまり、人が、クリエーターは偉大であり、被造物に与えるためのあらゆる喜びを持っておられ、しかも善をなそうと望んでおられることを信じてこそ、クリエーターに祈ることができるのです。クリエーターは善をなしたいと望んでおられるのですから、必ず助けてくださると信じることができます。また、クリエーターは、人の心が望むものを与える力を持っています。そのときには、クリエーターが必ず受け入れてくださるという確信を伴った祈りとなります。
友愛についても同様です。集まりの最初には、友人たちへの賛美を整えなければなりません。すなわち、それぞれの友人の重要性について語るのです。社会の偉大さを評価する程度に応じて、その社会を尊重することができるようになります。
そして、その後で祈るのです。つまり、各人が自分自身を吟味し、自分がどれほど社会のために力を尽くしているかを調べなければなりません。そうして、自分には社会のためになることを行う力がないことを知ったとき、初めて祈りの場ができます。すなわち、他者への愛に従事するための力と欲求を与えてください、とクリエーターに助けてもらえるよう祈るのです。
その後は、それぞれが「シェモネ・エスレ(十八祈祷)」における最後の三つの祝福をするときのように振る舞うべきです。つまり、自分の願いをすべてクリエーターに申し述べた後、『ゾハールの書』には、「シェモネ・エスレ」における最後の三つの祝福では、あたかもクリエーターがすでに願いを叶えてくださり、その御前を辞したかのように感じるべきである、と書かれています。
友愛においても同様に振る舞うべきです。つまり、自分自身を吟味し、よく知られた助言、すなわち祈りを行った後は、自分の祈りがすでに受け入れられたかのように考えなければなりません。そして、喜びの中で友人たちと共に座り、友人たち皆が一つの身体であるかのように感じるべきです。身体はすべての器官が満たされることを望むように、私たちもまた、すべての友人たちが満たされることを望むのです。
したがって、あらゆる計算や自己吟味の後には、友愛の喜びの時が訪れます。そのとき各人は、よい取引をしたかのように、自分は幸せであると感じなければなりません。その取引によって多くの利益を得られると思うようなものです。世の常としては、そのようなとき、人は友人たちに飲み物を振る舞います。
同様にここでも、それぞれが友人に飲み物や茶菓子を振る舞うべきです。なぜなら、今自分は幸せなので、友人たちにも幸せを感じてほしいと願うからです。したがって、集会が終わるときは、喜びと高揚のうちに解散しなければなりません。
これは「トーラーの時」と「祈りの時」という考え方によるものです。「トーラーの時」とは完全性の状態であり、そこには何の欠乏もありません。これが「右」の性質と呼ばれるものです。これについては、「その右の手には、彼らのための火の律法があった」と書かれています。
一方、「祈りの時」は「左」と呼ばれます。なぜなら、欠乏のある場所こそ是正を必要とするからです。これが「ケリム(器)の是正」と呼ばれるものです。しかし、「トーラー」と呼ばれる「右」の状態には、是正の余地がありません。そのため、トーラーは「贈り物」と呼ばれるのです。
人は愛する者に贈り物を与えるものです。そして、世の常として欠けたところのある者は愛されません。したがって、「トーラーの時」には是正について考える余地はありません。そして集会を終えるときには、前述した「シェモネ・エスレ」における最後の三つの祝福を祈るときと同じような状態でなければなりません。そのため、皆が完全性を感じることができるのです。