2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン1「デヴェクート(結合)に不可欠な条件としてのテン」のテキストです。
※2026年2月1日更新
十人未満の会衆というものはない
1986年の記事、第28番
『ゾハールの書』ナッソー(〈ハスラーム〉第105項)には次のように記されています。
「ラビ・エラザルは語り始めた。『私は来た。なのに、なぜ誰もいないのか』。イスラエルは、クリエーターの御前(みまえ)において、いかに愛されていることか。イスラエルがどこにいようとも、クリエーターが彼らの中におられる。『我がために聖所(シナゴーグ)を造れ。さすれば、我は彼らの中に住む』。世にあるすべての会堂は『聖所』と呼ばれる。『我、イスラエルの中に住む』とは、シェヒナ(神性)が先立って会堂に来るからである。会堂にいる最初の十人に数えられる人は幸いである。なぜなら、その者たちによって完成されるべきもの、すなわち会衆が完成されるからであり、会衆とは十人未満ではないからである。また、会堂には十人が同時に揃っていなければならず、個々ばらばらに来てはならない。なぜなら、その十人は皆、一つの体の各器官のようなものであり、その中にシェヒナが宿るからである。クリエーターは一度で人を造り、その際にすべての器官が整えられた。これは『主は汝を造り、汝を確たるものとして定めた』と書かれているとおりである」
上の言葉について、次の点を見極めていく必要があります。
1.まず、「彼らがどこにいようとも、クリエーターが彼らの中におられる」という点です。これは、特別な場所を必要としない、というふうに聞こえます。ところがその後で、「我がために聖所を造れ。さすれば、我は彼らの中に住む」と言っており、これは、特に会堂に、という意味に取れます。
2.我がために聖所を造れ。さすれば、我、彼らの中に住む」という言い方からすると、まず何らかの準備、すなわち「聖所を造る」ことが必要であり、その後に「我は住む」となることが示唆されています。無条件でそうなるわけではありません。
3.ラビ・エラザルが問いとして発している「私は来た。なのに、なぜ誰も人がいないのか」とは、いったい何を問うているのでしょうか。もし、シェヒナが先立って会堂に来るのだと言うのであれば、そこにはまだ人がいないのは当然です。
4.「会堂には十人が同時にいなければならず、個々ばらばらに来てはならない」とは理解しがたい言葉です。会堂に来る者の皆が、十人集まるまで外に立って中に入らず、その後、皆が一度に入るべきだ、と言うことでしょうか。そのようなことは、これまで一度も見たことがありません。では、「個々ばらばらに来てはならない」とは、いったいどのような意味なのでしょうか。
上記を理解するために、ここではこれを「働き(アヴォダー/務め)」の道に即して説明します。つまり、「報いを受けるためではなく」と呼ばれる、与えるために働くこと(務めること)の秩序を、どのように始めるか、という観点からです。
まず、「与える者」と「受け取る者」という二つのことを心に留めておかねばなりません。これは、クリエーターが被造物に善いことをしたいと望まれたことから生じたものです。そうして、クリエーターは被造物を創られ、クリエーターが被造物に与えようと望まれる善と喜びを受け取るようにされたのです。この「受け取る者」、すなわちクリエーターが創られた器の中で善と喜びを受け取るための性質は、「歓びと快楽を受け取る意志」と呼ばれます。そして、何かに対する切望の度合いに応じて、人はそれから享受できます。すなわち、歓びや快楽を受け取るための器が、「切望」と呼ばれるのです。
こういったケリム(クリの複数形:器)は、クリエーターによるものです。すなわち、最初にクリエーターから受け取ったクリは、「マルフット」や「ベヒナ・ダレット(第四段階)」と呼ばれ、それは、善と歓びを受け取ろうとする切望を意味します。これは「オアー・ヤシャー(直接光)のクリ」と呼ばれます。このクリは、ツィムツム(制限)される前に用いられていたもので、「エイン・ソフのマルフット」と呼ばれます。
その後、「恥のパン(ナハマ・デ・キスファ)」が生じないようにするために、修正がなされました。なぜなら、クリエーターが造られた自然の中には、枝はその根に似ようとするという原則があるからです。なぜ自然がそのようになっているかは、私たちに問う権限がありません。なぜなら、クリエーターについては、聖なる『ゾハールの書』が言うように、「どのような思考をもってしても、クリエーターを把握することは完全に不可能」だからです。これは、下位の者には、クリエーター思考を把握することはできないという意味です。
私たちが語れるのは、ただ「御方(おんかた:「あなた」の意/クリエーター)の御業(みわざ)によって、私たちは御方を知る」という観点においてのみです。すなわち、私たちの目に現れる行為についてのみ語り、目にしている事柄から、理由や推論を述べることはできても、私たちの前にまだ顕れていない行為については語ることができません。
このため、私たちは、クリエーターと被造物との間の最初の結びつきから語り始めるのであり、それは「被造物に善を行うというクリエーターの御意志」と呼ばれます。それ以前については、私たちはクリエーターを把握していないため、語ることができません。したがって、私たちが見ることができるのはただ、枝がその根に似ようとするという自然が存在する、という事実だけなのです。
これを是正するために、ツィムツム(制限)がなされました。なぜなら、受け取り手が根との形態の同等性を望んでいるため、受け取るだけであれば不快感を覚えることになるからです。これは、「受け取るために受け取ることは望まない」というもので、与えるために受け取ることができる場合にのみ受け取る、という在り方です。
このことにより、私たちはもはや、「受け取りの意志」と呼ばれるクリ(器)によっては豊かさ(シェファ)を受け取ることができず、「オアー・ホゼー(反射光)」と呼ばれる新しいクリによってのみ受け取ることができるようになりました。その意味は次のとおりです。
「オアー・ヤシャー(直接光)」とは、クリエーターが下位の者たちに豊かさを与えることを指し、逆に「オアー・ホゼー(反射光)」は、下位の者たちがクリエーターに与えようとすることを指します。
このため、オアー・ヤシャー(直接光)は「上から下へ」と呼ばれます。すなわち、与える者である上位の者、すなわちクリエーターが、下位の者たちに与えるのです。一方、オアー・ホゼー(反射光)は「下から上へ」と呼ばれ、受け取り手である下位の者が、クリエーターに与えようとするのです。この「与えるために(受け取る)」と呼ばれるクリは、下位の者に属します。なぜなら、下位の者が、自らを是正し根に似るために、このクリを作ったからです。これは、私たちが学んでいる通り、エイン・ソフの世界において、マルフットのクリが、オアー・ヤシャー(直接光)のクリ、すなわち上位から来るクリによって光を受け取っていたことと対照的です。オアー・ホゼー(反射光)のクリは、下位の者が自ら作らなければならないクリなのです。
オアー・ヤシャー(直接光)のクリによってのみ受け取るという是正がなされた後、その結果として、非常に多くの世界と数多くの段階が連なりながら生じていきました。なぜなら、このオアー・ヤシャー(直接光)というクリは下位の者の側から生じているため、一度で完成することはできず、下位の者たちの力に応じて、少しずつ段階的に完成されていくからです。
このようにして数多くのクリが生じたため、光もまた多くの段階に分かれることになりました。これに対して、かつて私たちは「受け取るために受け取る」と呼ばれるクリエーターに属するクリにおいて、光に照らされていましたが、その時のクリはクリエーターによって一度に完全な形で創られました。そのため、そこには段階によって区別されない、単一でシンプルな光が存在していました。
これは、アリ(ラビ・イツハク・ルリア)が『生命の樹』(第1頁)で、次のように書いているとおりです。「知りなさい。発せられたものが発せられる前、すなわち被造物が創造される以前、上位のシンプルな光が、全現実を満たしていた。しかし、すべては一つのシンプルな光であり、すべてが完全に等しく、一様だった。これをエイン・ソフと呼ぶ」。
その理由は前述したように、クリエーターに属するこの器は、完全無欠の形で完成しているからです。したがって、段階の区別なく、一つの光を受け取っていました。
これに対して、下位の者に属する器は一度で完成できません。私たちには苦労と努力をかけるべきただ一つの務めがあります。それは、「オアー・ホゼー(反射光)」と呼ばれる器をつくることであり、それ以上でも以下でもありません。つまり、下位の者がクリエーターから善と歓びを受け取ろうとするのは、すべてクリエーターに与えたいと欲するがゆえであり、これが「オアー・ホゼー」と呼ばれるものになります。
そして、下位の者が、自分には自らのために受け取ろうとする欲求や切望がなく、ただクリエーターを喜ばせたいと望んでいるという認識に至ったとき、何を与えればクリエーターを喜ばすことができるのかを計算するようになります。
そのとき、その者は、クリエーターを喜ばすために与えられるものは、ただ一つしかないことを知ることになります。そして、創造の目的は被造物に善をすることであり、クリエーターが被造物に善と歓びを与えたいと望んでいるため、その者は次のように言うのです。
「私は、クリエーターに満足(ナハト・ルアハ)をもたらすために、善と歓びを受け取りたい」。
そして、その者がより多くの豊かさを受け取れるほど、すなわち、受け取った豊かさから、最大の歓びを感じるほど、確かにクリエーターの喜びも大きくなっていきます。
これは、身分の高い人物を自宅に招いた場合に似ています。その家の主人と家族は、その重要な客が料理を楽しめるよう、昼夜にわたり精を出して働き続けました。客が口にしたその食事は、多大な努力を費やして用意されたものであり、すべてはその客に楽しんでもらうためになされたものでした。そして、食事の終わりに、主人は客にこう尋ねたのです。
「この食事はいかがでしたか。これまでに、このような食事を召し上がったことがありますか」。
すると客はこう答えました。
「正直に申し上げましょう。私にとって、何を食べるかは重要ではありません。私は食べ物から得られる歓びを考えたことがないのです。ですから、あなたがもっと簡素な食事を用意されたとしても構いませんでした。あなたがこの食事に多くの労苦を注がれたことを、あなたから聞いていますから」。
これを聞いた主人は、盛大な食事を与えたことから、いったいどれほどの喜びを得ることができるでしょうか。
このたとえには、次のような意味があります。
人がクリエーターに喜びをもたらしたいために、クリエーターから善と歓びを受け取るなら、クリエーターが被造物に善を行うことを望むという創造の目的の実現を助けていることになります。それにもかかわらず、「クリエーターから受け取った善と歓びには、何の味も感じられない」と言うならば、いったいどのような満足(ナハト・ルアハ)をクリエーターにもたらしているというのでしょうか。
以上から分かるように、もし人が、クリエーターから受け取るものの価値を高めようと努め、王からの贈り物を尊ぶ(たっとぶ)ことができるとしたら、そこには理由があります。つまり、その人は、クリエーターにこう言うことができるのです。「私はあなたから大きな歓びを受け取っています。なぜなら、そうすることでだけ、あなたを喜ばせることができると知っているからです。だからこそ、私は多くの歓びを受け取ることを望んでいるのです」。
しかし、知っておかなければならないのは、知恵の木の罪、すなわちアダム・ハリションが犯した罪の後、人は「塵(アファル)」の段階、すなわち「受けるために受け取る者」の段階となってしまった、ということです。これは不浄のABYA(アツィルト・ブリアー・イェツィラー・アシヤー)の諸世界から延び広がったものであり、『ゾーハルの書への序文』(第25項)に次のように書かれています。
「人は、トーラーとミツヴォット(戒律)を行うことによって、上からの力を受け取るよう課されており、それによって授与する欲求を持つことができるようになる。これが『イスラエル』、すなわちヤシャー・エル(創造主へまっすぐ)と呼ばれる段階である。つまり、思考と欲求のすべてが、ただクリエーターに満足をもたらすためだけという段階である。しかし、もしまだこの欲求を持っていないなら、その人は諸国の民を流浪していると見なされる。諸国の民は人を自己愛のためだけに働かせるよう隷属させる。これは『受けるために受け取る』と呼ばれ、クリポット(殻)に属し、ケドゥーシャ(神性)には属さない。『汝らは聖なる者となれ、我が聖であるからだ』と書かれているとおりである。すなわち、クリエーターがただ与える存在であるように、汝らもまた、その意図のすべてを、与えるためだけにしなければならない、という意味である」。
これとは反対に意図が授与するためではない場合、それはイスラエルの段階の反対と見なされます。それはむしろ、「諸国民へまっすぐ(ヤシャー・レオモット・ハオーラム)」と呼ばれます。なぜなら、その者たちの形は、ただ授与することを望むクリエーターとは反対だからです。
もし、その場にクリエーターとの形態の同等性があるヤシャー・エルの段階が宿っているなら、すなわちその場に他の支配が存在しないなら、その場にはシェヒナが宿るようになります。これは「我が名を記すすべての場で、汝らのもとに来て、汝らを祝福する」と書かれているとおりです。その意味は次の通りです。クリエーターがこの場にただ我が名のみが宿り、被造物の支配は存在しないと言えるようであれば、つまり下位の者が、ただクリエーターに授与することだけを望んでいるのなら、「我は汝らのもとに来て、汝らを祝福する」となります。すなわち、その場に「我、シェヒナを宿らせる」ということです。
これによって、私たちは、『ゾハールの書』が「彼らがどこにいようとも、クリエーターは彼らの中におられる」と述べていることについて、先に問いとして挙げた点を理解できるようになります。この言葉からすると、特別な場は必要ないかのように思われます。しかし、この言葉の後で、「我がために聖所(会堂)を造れ。さすれば、我は彼らの中に住む」と言われています。これはまさに聖所という特定の場においてであって、どこでもよいという意味ではないように思われます。
「彼らがどこにいようとも」という言葉は、「イスラエルがどこにいようとも」と解釈できます。イスラエルとは「ヤシャール・エル(クリエーターへまっすぐ)」であり、クリエーターと形態の同等性の状態を意味します。クリエーターが慈しみをもって授与する存在であるように、イスラエルもまた、ただクリエーターに授与することだけを望んでいる、ということです。形態の同等性があれば、ツィムツム(制限)は取り除かれ、その場にシェヒナが宿ります。
これが「聖所のクリ(器)を造れ」と言われるものであり、「汝らは聖なる者となれ。我、主が聖であるからだ」と書かれていることと同じ意味です。したがって、イスラエルの段階と「我ために聖所を造れ」の段階は、同一の事柄であることが分かります。
つまり、「我ために聖所を造れ」と言われているのは、場をつくること、すなわち欲求を整えるための大きな準備と働き(務め)を意味しているのです。わが師であり父であるバール・ハスラムが語っていたように、スピリチュアリティにおいて「場」とは欲求を意味します。すなわち、クリエーターに安らぎをもたらすための授与の意図があるケドゥシャ(神性)の欲求であり、これこそが前述した「イスラエル」、すなわちヤシャー・エルの段階です。
次に、第二の問いである「私は来た。なのに、なぜ誰も人がいないのか」という問いについて説明しましょう。確かに、ラビ・エラザルが「シェヒナ(神性)が先立って会堂に来ると言うのであれば、当然その時点ではまだ人はいません。では、「なぜ誰も人がいないのか」とは、いったい何を意味しているのでしょうか。
しかしその前に、「人(イーシュ)」が何を指すのかを理解する必要があります。「人」とは、「幸いなるかな、悪しき者の助言に歩まなかった人は」と書かれている意味に解釈すべきです。すなわち、「人」という段階と「獣」という段階があり、「獣」とは、自己愛に深く浸っていて、獣のような行いをする者のことを指します。
したがって、「私は来た。なのに」という言葉は、「私があなたがたに先立って来た」という意味になります。しかし、これもまた説明を要します。なぜなら、クリエーターについては、「全地はその栄光に満ちている」と言われているのに、どうして「クリエーターが先立って会堂に来た」と言えるのでしょうか。つまり、人々が祈るより先に、クリエーターが会堂に来るとは、どういう意味なのでしょうか。
これについては、バール・ハスラムが、「彼らが呼ぶ前に、我は答える」という聖句を解釈したのと同じ道筋で説明できます。この意味はこうです。人が祈るために出かけるということ自体が、「私(クリエーター)が人に、祈りに行こうという思いと欲求を与えた結果」なのです。
したがって、「私があなたがたに先立って来た」という言葉の意味は、「私が人に、会堂に来て“人”となるための欲求を与えた」ということです。ところが、最終的に私が会堂で見出すのは、自己愛のために祈っている獣のような人の姿です。
このように、「私は来た。なのに、なぜ誰もいないのか」という言葉の意味は、「私は、人が会堂に行き、神殿、すなわち神性なことについて祈り、イスラエルの段階となるための欲求を与えたのに、結局なぜ『人』がいないのか」ということです。すなわち、そこには人はおらず、皆が獣として必要なことのために祈っているのを、私は見ている、という意味です。
次に、「会堂には十人が同時にいなければならず、個々ばらばらに来てはならない」というラビ・エラザルの言葉について、私たちが問いとした点を説明しましょう。私たちは、「十人集まるまで外に立って中に入らず、その後、皆が一度に入るべきだ、と言うことでしょうか。そのようなことは、これまで一度も見たことがありません」と問いかけた。ラビ・エラザルはその証拠として、「クリエーターは一度で人を造った」と述べています。しかし、この証拠そのものについても、理解が必要です。
しかし、この点を解釈するには、まず、なぜ、会堂には正確に十人ちょうどが必要で、それ以下であれば、シェヒナがそこに宿ることができないのかを理解しなければなりません。ラビ・エラザルはその理由として、「共同体(エダー)は十人未満では成立しない」と述べています。
しかし、これも理解を要します。なぜ、九人では足りず、また十人以上に増えてはいけないのでしょうか。すなわち、九人は共同体と呼ばれず、十人を超えても、共同体として新たに何かが付け加わるわけではない、ということです。これは、ハラハー(律法)上の証言(エドゥート)に関して言われているように、「二人は百人に等しく、百人も二人に等しい」(『シェブオット』第42頁)という原則と同様です。それでもなお、ちょうど十人でなければならないのであり、賢者たちが言ったように(『サンヘドリン』第39頁)、「十人いるところには、シェヒナが宿る」のです。
知られているように、マルフットは「第十」と呼ばれる。また、受け取る器もまた、セフィラ・マルフットと呼ばれ、それは第十のセフィラであり、上位の豊かさを受け取る存在です。これは「受け取りの欲求」と呼ばれ、すべての被造物はそこから派生しています。
このため、「共同体は十人未満では成立しない」のです。なぜなら、すべての物質的な枝は、上位の霊的な根から引き出されているからです。そして、「十個のセフィロトを伴わない光は存在しない」という原則に従い、物質界においても、上位の段階に倣って、重要なものとして認められる会衆とは、十人がそろって初めて成立するのです。
そして今、「十」の意味を理解することができます。すなわち、クリエーターが「私は来た。なのに、なぜ誰もいないのか」と問われる箇所です。これは「獣」ではなく「人(イーシュ)」についてであり、前述のとおり、これは第十のセフィラである天の王権(マルフット・シャマイム)を指しています。したがって、人はシェヒナーの流浪(追放)、すなわち『ゾハールの書』の言う「塵の中のシェヒナ」のために祈らなければならないのです。
したがって、その意味は次のようになります。
「もしクリエーターがそこに十を見いださないなら」、すなわち、「私は先に進み、あなたがたに欲求と目覚めを与え、会堂に来て、第十――すなわち第十のセフィラであるシェヒナの流浪について祈るよう促した。ところが、私はその第十のために祈る者を見いだせず、人に属することではなく、獣に属することを祈っているものばかりであった」という意味です。
同じ道理で、「会堂には十人が同時に揃っていなければならず、個々ばらばらに来てはならない」という言葉も解釈できます。これは、天の王権は一度に受容されなければならない、という意味である。すなわち、「今日は少しだけ天の王権を自分に受け入れよう。つまり、会堂にいる間だけ受け入れよう。そして家に帰ったら、自己愛を楽しもう」と言うような在り方ではならない、ということです。
それは、自分の時間の一部だけを与えるかたちで、与えるために働くことには同意するが、すべての時間を天の栄光のために捧げることはしない、と言っています。しかし、人が天の王権のくびきを自分に受け入れるときには、クリエーターに対して、それが永遠であり、常時続くものとなるよう願わなければなりません。会堂にいる間だけのものにてはならないのです。
ここから、「会堂には十人が同時に揃っていなければならず、個々ばらばらに来てはならない」という言葉を解釈できます。すなわち、「今は少し天の王権を受け入れ、後でまた少し受け入れよう」と言ってはならない、ということです。天の王権を受け入れることは、一度に、すなわち自分の人生全体にわたってでなければならず、今日少し、明日少し、というものではないのです。
それゆえ、もし天の王権の受け入れが完全なものとしてなされるなら、その後でその段階から落ちることがあったとしても、最終的には恒常的な信仰、すなわち天の王権が定着した状態に至ります。なぜなら、受け入れそのものが完全な形、すなわち「一度に十」という形でなされている以上、「一」とは「人生全体にわたって一度に」という意味であり、「一銭一銭が積まれて大金となる」ように積み重なっていくからです。
これに対して、天の王権の受け入れが部分的なもの、すなわち一時的で永続性のないものであったなら、それは完全性を欠いています。完全でないものが、どうして互いに結び合わされ、それを積み重ねて、恒常的な信仰に至ることができるのでしょうか。
それゆえ、人が天の王権のくびきを自分に受け入れるときには、それが完全なものとなるよう注意しなければなりません。これが、「会堂には十人が同時に揃っていなければならない」という言葉の意味であり、その解釈は「一度だけで、永遠に」ということです。すなわち、天の王権の受け入れが永遠のものとなることを望んでいるのです。