2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン2「汝らは我をつくった」のテキストです。
※2026年2月1日更新
あらゆることにおいて、光と器を区別しなければならない
1985年の記事 第25番(ラバシュ)
あらゆることにおいて、光と器を区別しなければなりません。つまり、与える者であるクリエーター(創造主)と、受け取る者である被造物とを区別するのです。
クリ(器)なくして光は存在しません。すなわち、光を獲得する器を持つ者がいなければ、誰がそれについて語れるというのでしょうか。ゆえに、私たちが語れるのは、クリという衣をまとった光についてのみです。つまり、与える者が体に与える豊かさについて、すなわち、その体に注がれる豊かさから体が受ける感動や印象の程度まで語ることができるのです。
そして、人が自分の体に受け取るすべてのものは、物質的なものもスピリチュアル的なものも、すべてクリエーターから来ているのだ、ということを信じなければなりません。なぜなら、クリエーター以外には、人に影響や施しを与える力はこの世界に存在しないことが知られているからです。
そのため、人がクリエーターへの務めに入り、それを始めるときには、クリエーターに感謝し、賛美しなければなりません。これこそが、人がクリエーターへの務めに入る始まりだからです。そして、この務めの正しい順序は、賢者たちが言ったとおりです。「人は常に、まずクリエーターへの賛美を整え、その後に祈るべきである。私たちはこれをどこから学んでいるのか。モーセからである。『その時、私はクリエーターに願い求めた』と書かれており、また『主なる神よ、あなたは始められました』とあり、その後に『どうか渡らせてください、そしてその素晴らしい地を見させてください』と書かれている」(ベラホット32a)。
したがって、人が主に感謝し始めるとき、まずは、クリエーターが世界を創造されたことについて感謝を捧げなければなりません。これは、私たちが祈りの際に「『世界あれ』と言われた方、祝福されよ」と言うとおりです。ここからクリエーターへの務めが始まります。すなわち、クリエーターが世界を創造されたことについて、感謝できる程度まで、クリエーターへの務めを行うことができます。つまり、感謝の大きさは享受する喜びの大きさに準じるのです。
ここで、真実と偽り(いつわり)を吟味し始めます。そして、ここに個人による(内的)務めと公衆による(一般)的な務めとの違いがあります。すなわち、「トーラーを職とする者」か、そうでない者かの違いです。その意味は、私の父であり師であったバール・ハスラムが説明しているとおりです。「『トーラーがその人の職である』とは、トーラーを通して信仰を得ることを望んでいる、という意味である。一方、公衆に属する(一般的な務めを行う)人々にとっては、それは来世で報いを得るため、つまり受け取るためにトーラーを学ぶことを意味しており、与えるために従事する個人に属する(内的な務めを行う)人々とは異なる」。
人がクリエーターを賛美し始めるとき、そこには真実と偽りの吟味があります。すなわち、人の性(さが)として、誰かが自分を助けてくれ、その人に感謝しなければならないとき、その感謝の大きさは、どれほど助けられたかと感じる度合いに準じています。したがって、人がクリエーターに与えてもらったことについて感謝を捧げ始めると、体は、クリエーターが自分に行ってくださったことから得た恩恵を考え始めます。そして、その恩恵にどれだけ感動したかというその大きさに準じて、感謝の大きさも定まります。
それゆえ、人が「『世界あれ』と言われた方、祝福されよ」と言うときの度合いも、その人が世界から喜びを得ている大きさによります。そのとき、体は人に対して、物質的にもスピリチュアル的にも欠けていることを示し、クリエーターへの賛美を整えさせないようにします。そのときには、なさなければならない大きな務めがあります。なぜなら、理性を超えて進み、クリエーターが自分に対して善のみを行っている、と信じなければならないからです。そして、ここにもまた、真実と偽りの吟味が生じます。
クリエーターの名を「善にして善をなす者」と総称する以上、クリエーターが善にして善をなす方であると理性を超えて信じるためには、大きな努力や苦労を必要とします。したがって、人がクリエーターへの賛美を整え始めるその時点で、すでに理性を超えて進むことができますように、という祈るべき内容が生じているのです。それ以前には、理性を超えたクリエーターへの信仰に対し、それほどの欠乏を持つことはありませんでした。しかし今は、自分の信仰に対して欠乏を感じるようになり、その結果、その人はトーラーを学ばなければならなくなります。なぜなら、トーラーの中の光が人を善へと立ち返らせるからです。
このように、クリエーターへの賛美を整えようとすること自体が、人に欠乏の場を生じさせます。そして、その欠乏が「器」と呼ばれるものであり、自分が完全さから遠く離れていることに心が動いた程度に応じて、それだけの務めをなす場と、祈りとトーラーの必要性が生じるのです。
しかし、種類の異なる欠乏もあります。時として、人は自分の小ささを見て絶望し、戦い(体との対決)の場から逃げ出してしまうことがあります。そのときは、自分の状態を忘れている場合にのみ、善や歓び(快楽)を受け取ることができます。すなわち、スピリチュアリティについて考えていないか、眠っている場合です。つまり、眠りの中に大きな快楽を感じている状態です。しかし、それは眠り自体に特別な快楽があるからではなく、眠っている間はクリエーターへの務めに関することを思い出さないからです。そこに快楽があるのです。なぜなら、クリエーターへの務めについて思い出した瞬間、体はすぐに小さくちっぽけな自分を思い出させ、人に絶望をもたらすからです。
したがって、人は常に、絶望に陥らないよう注意しなければなりません。すなわち、自分が前述のような形でクリエーターへの務めを続けられないからといって、そのために苦しみの状態に陥ったのだ、と思ってはならないのです。そこで、私の父であり師であったバール・ハスラムは「人が自分自身を批判するのは、特別に定めたそのための時間だけであり、体が『自己反省をせよ』と語りかけてくるときにしてはならない」と言ったのです。むしろ、体に向かってこう言うべきです。「私は、自分が与えられた線に沿って歩んでいるか、それとも正しい線から逸れてしまったかを評するための、特別な時間を持っている。今、私はトーラーと祈りに従事し、クリエーターが正しい道を歩み、創造された目的に到達しようと望むすべてのクリエーターの働き手たちを助けてこられたように、必ず私も助けてくださると信頼している」。
そして、私の前の記事、および第11番記事(タヴ・シン・メム・ヘー)で書いたとおり、私たちは、体が言ってくることの逆を言わなければなりません。これによって、ゾハールの問いとその答え(ベフコタイ、第18項)を理解できるようになります。
「『そして、汝らはそれらを行う』――『それらを行う』とは何を意味するのか。すでに『汝らは歩み』『汝らは守る』と言われているのに、なぜさらに『そして、汝らはそれらを行う』と言う必要があるのか。これに答えて言う。トーラーのミツヴォット(戒律)を行い、その道を歩む者は、クリエーターを上に造ったかのようである。クリエーターは『それは、あたかも彼らが我を造ったかのようである』と言われた。そして彼らはこれを確立した。ゆえに、『そして、汝らはそれらを、掟と法として行う』とあるのである」。
――以上がその言葉です。
一見すると、この答えはきわめて不可解です。トーラーとミツヴォット(戒律)を実行することによって、クリエーターを上に造るなどと言うことが、いったいどのようにして可能なのか、という疑問が生じるからです。そもそも「全地はその栄光に満ちている」のであり、被造物が創造され、トーラーとミツヴォット(戒律)が行われる以前からそうであったのなら、「汝らが我を造ったかのようである」とは、いったいどのような意味なのでしょうか。
しかし、前述のとおり、クリ(器)なくして光を語ることはできません。なぜなら、光があると見なすのかは誰かと言えば、クリ(器)が存在して初めて、そのクリが光を獲得するからです。それゆえ、「創造の目的は被造物に善を与えることである」というのは、被造物が実際に善と喜びを受け取っている場合にしか言うことができません。すなわち、クリ(器)が存在し、そのクリ(器)が、クリエーターから受け取るものが善と喜びだけであるという形で、クリエーターを把握している状態を指しているのです。
これに対して、被造物がクリエーターから善と喜びを受け取っていないときには、次のような問いが生じます。すなわち、誰に対して、クリエーターの名が「善にして善をなす方」として顕れるのか、という問いです。
そのため、クリエーターのすべての名の総称である「善にして善をなす方」という御名(みな)が顕れるためには、被造物がクリエーターから善と喜びを受け取る必要があります。しかし、その恵みが完全な形、すなわち恥のパン(ネハマ・デ・キスファ)という側面を伴わない形で与えられるように、制限と隠蔽が行われました。つまり、人が授与のクリ(器)、すなわち形態の同等性を備えるより前には、その善を把握し、感じ取ることができないようにされたのです。
その結果、「善にして善をなす方」という御名は顕れておらず、これが被造物に、クリエーターを感じ取ることができない状態をもたらしています。そのため、この世には、クリエーターを信じない悪しき人たちが存在するのです。
ゆえに、クリエーターの御名(みな)がこの世界の万人の目に顕れるために必要なのは、ただ一つ、形態を同じくした器(形態の同等性)だけです。そして、この授与の器、すなわち形態の同等性を得た器を獲得する能力は、トーラーとミツヴォット(戒律)を実行することによってのみ得ることができます。
すなわち、トーラーとミツヴォットを行う際には、その意図が、トーラーとミツヴォットの実行による恩恵によって、イスラエルの栄光を高める※ためでなければなりません。「イスラエル」とは、前述したとおり、「ヤーシュル・エル」、すなわち、行いが自己の利益のためではなく、クリエーターにまっすぐ向けられていることを意味します。これこそが形態の同等性というものです。
※ 原文では「イスラエルの角を高く掲げる」という象徴表現が用いられており、これはイスラエル(ヤシャー・エル)のスピリチュアル的威光・力を顕現させることを意味する。
そして、聖なるゾハールの言葉では、これを「塵からシェヒナを立ち上がらせる」と呼んでいます。なぜなら、スピリチュアリティは私たちの目に尊ばれるものではなく、体に対して「クリエーターに仕えることができるのは大いなる特権である」と言えるほどではないからです。しかし、そのときには、体は屈服し、ケドゥーシャ(神性)の前で無化されます。
これが、聖典・ゾーハルが、「『我が掟に歩み、我がミツヴォットを守るなら』、それによって『そして、汝らはそれらを行った』」と述べている意味です。これは、まるで「あなたがたが、上において私を造ったかのようである」、と言っているのです。言い換えれば、あなたがたはそれによって、クリエーターの御名(みな)を「善にして善をなす方」として顕し、すべての者が、形態の同等性に到達することによって善を感じ取るようになる、ということです。