社会の目的 その1(編集中) 記事 第1番 その1 1984年 私たちは、バール・ハスラムの道に沿いそのメソッドに従って、その道を辿ることを望む者たちのための社会を築くよう、ここに集いました。それにより、獣に留まることなく人としての段階に上がっていきます。それは、賢者たちが「わが羊、わが牧場の群である汝ら。汝らは人なり」(イェバモット、第6章1節a)という聖句についていうがごとくです。それについて、ラシビは「汝らは『人』と呼ばれるが、偶像崇拝者は『人』と呼ばれない」と言っています。 人間の真価を理解するために、ここで「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を畏れ、その戒律を守れ。これはすべての人の本分である」(『伝道の書・コヘレトの言葉』、12章13節)という聖句に関する賢者たちの言葉(ブラホッ、6節b)を取り上げましょう。ゲマラーは「『これはすべての人の本分である』とは何か」と問いかけています。 ラビ・エラザールは「クリエーターは『そのためだけに全世界が創造された』とおっしゃった。これは全世界が神への畏れのために創造されたことを意味する」と言っています。 しかし、私たちに必要なのは、この世界が創造された所以(ゆえん)である神への畏れとは何かを理解することです。私たちは賢者たちのあらゆる言葉から、天地創造がなされた理由は、クリエーターが被造物に恵みを与えるためであったと学んでいます。これは、クリエーターが被造物がこの世で幸せを感じられるよう、被造物に喜びを与えたいと願われたことを意味しています。そして賢者たちは、「これはすべての人の本分である」に関して、天地創造がなされたのは神への畏れであると述べています。 しかし、天地創造は被造物が喜びと満足を受け取るためであったにもかかわらず、被造物はそれを受け取っていません。『マタン・トーラー(トーラーの授与』の記事では、その理由はクリエーターと被造物の形態の相違にあるとしています。クリエーターは与える者であり、被造物は受け取る者だからです。しかし、枝はそれ自体が生まれ出た根に似るという法則があります。 そして、私たちの根源には受け取りの性質がありません。クリエーターには欠けているものが何もなく、欲求を満たすために何も必要としません。そのため、人は受け手にならないといけなくなると、不快感を覚えます。これが、人が施しの糧を得ることに恥を感じる理由です。 これを正すために、世界が創造される必要がありました。オラム(世界)とはエレム(隠蔽)を意味します。つまり、喜びと満足は隠される必要があったということです。なぜ、そういうことになるのでしょうか? 答えは畏れにあります。言い換えれば、人が「自己愛」といわれる受け取りの器を用いることを恐れるようにするためです。これは、人が渇望によって喜びを受け取ることを阻止し、渇望するその対象物に打ち勝つ強さを持たなければならないことを意味します。 つまり、人は自分が渇望するものからではなく、クリエーターに満足をもたらすことから、喜びを受け取るべきなのです。被造物はクリエーターに授与することを望み、クリエーターを畏れ、自らのために受け取ることを恐れるということです。なぜなら、自分の利になること、つまり喜びを受け取ってしまうと、クリエーターとの結びつきから遠ざかってしまうからです。 したがって、人がクリエーターのミツヴォット(戒律)のうち何か一つでも行うときには、クリエーターのミツヴォットを守ることで、クリエーターに授与するという純粋な思いをもらえるよう目指すべきです。それは、賢者たちが「ラビ・ハナニア・ベン・アカシアは言う、『クリエーターはイスラエルを清めたかった。これゆえにクリエーターはイスラエルに潤沢なトーラーとミツヴォットを与えた』」と言ったとおりです。 これが、一人ひとりが「クリエーターに授与する」という精神に基づいた社会を築き上げるため、私たちがここに集うという理由です。そして、クリエーターへの授与を成し遂げるためには、まず人への授与、すなわち「隣人愛」から始めなければなりません。 そして、隣人愛は自分自身を無にすることなしにありえません。つまり、一人ひとりが自らを低く感じる一方で、クリエーターが「私たちの間にシェヒナ(神性)を宿らせる」という目的だけを持つ社会に身を置くよう、その機会を与えてくれたことを誇りに思うべきなのです。 私たちは、まだこの目的に到達していませんが、到達したいという欲求をもっていることに感謝すべきです。なぜなら、私たちはまだ道の始まりにいるにすぎませんが、この崇高な目的に到達するという希望を持っているからです。
1. 1984 - 社会の目的 その2
社会の目的 その2(編集中) 記事 第1番 第2部 1984年 人は「自己愛」と呼ばれるクリ(器)で創造されているため、行動しても自己に利益がないと思うと、ほんのわずかな動作すら起こす燃料を持っていません。自己愛を無化することなしに、クリエーター(創造主)とのデヴェクート(内的交わり)、すなわち形態の同等性を獲得することは不可能です。 形態の同等性というのは、私たちの性質に反しています。そのため、私たちに必要なのは、「邪悪」と呼ばれる受け取りの意志を無化するよう皆が取り組める社会、そのための大きな力を持つ社会です。なぜなら、邪悪さは人が創造された目的に到達することを阻むからです。 そのため、社会は、その目的を達成するよう満場一致で同意する個人により構成されなければなりません。そうすれば、全員が一つになり、一体化した大きな力となって、自らに対して戦うことができるようになります。こうして、各自が目的を達成しようする大きな欲求に基礎を置くことになるのです。 互いに統合するためには、一人ひとりが他者の前で自分を無化するべきです。無化は、それぞれが友の欠点ではなく、長所を見ることで可能となります。しかし、自分が友より少しでも優れていると思う者は、もはや皆と一体になれません。 また、この目的のために集まっているのですから、集まりの間は厳粛さを保ち、意図を失わないようにすることも大切です。謙虚に歩むことはすばらしいことですが、自分は真剣ではないと見せることを身につけるべきです。しかし、実際は、心の中で火が燃えています。 しかし、それに値しない人々に対しては、集りの間、クリエーターとのデヴェクート(結びつき)を獲得すべきという、集まりの目的にそぐわない言葉や行動に慎重であるべきです。デヴェクート(内的交わり)に関しては、「マタン・トーラー(トーラーの授与)」を参照してください。 しかし、仲間と一緒にいない時は、心の中の意図を表に出さず、周りの人々と同じように見せるのが最良です。これが、「汝の神、主と共に謙虚に歩め」の意味です。これについては、より高次の解釈もありますが、やさしい説明もまた重要です。 したがって、一体になろうとする仲間は平等であるのがよく、平等であれば、友の前で自分を無にできるようになります。そして、軽薄さを許さないように、集団を注意深く見守る必要もあります。なぜなら、軽薄さはすべてを台無しにしてしまうからです。しかし、これは、すでに述べたように、内的なことに関してです。 しかし、その社会に属さない人がやってきたときは、真剣さを表に出さないようにし、表面上はその人と同じように見せるべきです。つまり、真剣な話題を避けつつ、「招かざる客」と呼ばれる入ってきたばかりの人にふさわしいことだけを話すということです。
2. 1984 - 友愛に関して
友愛に関して(編集中) 記事第2番(1984年) 1)友愛の必要性。 2)私が特にこれらの友を選んだ理由、友人たちが私を選んだ理由は何でしょうか? 3)友人たちは、それぞれが社会に対する自らの愛をオープンにすべきでしょうか? それとも、心の中で愛を感じ、密かに友愛を実践するだけで十分であり、自分の心の内を包み隠さず見せる必要はないのでしょうか? つつましさがすばらしいというのは、周知の事実です。しかし、逆に心の内にある友愛をオープンにしなければならない、とも言えます。なぜなら、友愛を明らかにすると、友の心を仲間に向けさせ、皆それぞれが友愛を実践していると感じられるからです。ここに、この方法によって得られる恩恵があり、より強く友愛を実践する力が得られます。なぜなら、それぞれの愛の力が融合し一つになるからです。 つまり、一人が友愛を実践する力を一つ持っていて、グループが10人で構成されていれば、友愛に取り組む必要性を理解する者の10の力が統合します。しかし、それぞれが友愛の実践を社会に対して示さないのなら、個々それぞれにグループの力を欠くことになります。 これは、友を好意的に判断することがとても難しいことに起因します。各自は自分が正しく、友愛に取り組んでいるのは自分だけだと思っています。この状態では、他者への愛を実践する力はごくわずかしかありません。したがって、とりわけ友愛の実践は、公(おおやけ)にして隠すべきではないのです。 しかし、人は常に社会の目的を忘れないようにしないといけません。そうでないと、絶えず自らの利益だけを気にしている肉体が、目的をぼやかしていくからです。私たちは、この社会が友愛に到達することだけを基盤として成り立ち、それが神の愛へのバネとなることを忘れてはなりません。 特にこれは、何の報酬もなしに友に与えることができる社会が必要だと言われることで到達します。つまり、肉体の受け取りの器を満たす手助けをしたり、贈り物を与えたりする社会は必要ないということです。そのような社会は自己愛に基づいており、受け取りの器の発達を促すにすぎません。なぜなら、友が物質的な物を得るのを手伝ってくれると、さらに物質的なものを得る機会を想像してしまうからです。 そうではなく、この社会が他者への愛に基づいて築かれたことを忘れないようにしなければなりません。そうすることで、各自はグループから他者への愛を受け取り、自己を憎むようになります。そして、友が自己を無化し、他者を愛そうと努力する姿を見ることで、皆がその友と意図を合わせて一つになっていくのです。 したがって、例えば社会が10人で構成されていれば、各自が自己を無化し、自己を憎しみ、他者への愛を実践する10の力を持つことになります。そうしなければ、他者を愛する力を1つしか持たないままになります。それは、友人たちの密かな実践により、その友愛に気づけていないからです。それどころか、この友人たちは他者への愛という道への欲求を弱めています。この状態では、友人たちがすることに学びを得て、自己愛の支配化に陥ってしまいます。 4)皆が友に必要なことを、一人ひとりについて具体的に把握し、友を満足させる方法を理解するべきでしょうか? それとも、通常の友愛を実践すれば十分でしょうか?
友の愛 その1
友の愛 その1(編集中) 記事第3番、1984年 「ひとりの人が男に出会い、その男が野をさまよっていたので、その人は男に尋ねて言った、『あなたは何を捜しているのですか』」。男は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞ私に知らせてください」。(創世記、37章) 「野をさまよっている」男が言っているのは、世界を維持するための野の作物が湧き出でるべき場所のことです。そして、野での仕事とは、土を耕して種を蒔き、収穫することです。これは『涙をもって種を蒔く者は、歓びをもって収穫する』と言われており、『主が祝福した野』と呼ばれています。 バール・ハトゥリムの説明では、野をさまよっている人とは、理性の道から外れてしまう者、到達すべき場所へ至る真の道を知らない者を指します。これは、「野さまようロバ」のような状態であり、その人は自分が到達すべき最終目的地には決して至れないと思うような状況に陥ります。 「その人は男に尋ねて言った。『あなたは何を探しているのですか?』」とは、「どうしたらあなたをお助けできますか?」という意味です。「男は言った、『兄弟たちを捜しているのです』」とは、仲間と共にいることによって、つまり友の愛があるグループにいることによって、神の家へと続く道を登っていけるということです。 この道は「授与の道」と呼ばれ、私たちの性質に反した道です。神の家に到達するには、友の愛以外の方法はありません。友の愛によってのみ、各自で友を助け合えます。 「すると、その人が言った。 『兄弟たちはここから去っていった』」。ラシはこれについて、兄弟たちが自ら兄弟愛から離れたことを意味すると解釈しました。つまり、あなたとつながることを望んでいないということです。これが、最終的にイスラエルのエジプトへの追放を引き起こしました。エジプトから救済されるためには、友の愛を望むグループに入ることを自らに課さなければなりません。そうすることで、エジプトからの脱出に報われ、トーラーを受け取るのです。
各自、互いに友を助けよ
各自、互いに友を助けよ(編集中) 記事第4番(1984年) 私たちは、どうしたら友を助けられるのかを理解しなければなりません。これができるのは、富める者と貧しき者、賢き者と愚かなる者、弱き者と強き者といった違いがあるときに限られているのでしょうか? しかし、皆が賢かったり、富があったり、強かったりする場合は、どうやって助け合うのでしょうか? 気づくのは、皆に共通のものが一つあることです。それは、人の気持ちです。「心の中の気がかりは、他者に打ち明けよ」と言われています。これは、気持ちを高めるには、富も学識も役立たずだからです。 友が落ち込んでいるのに気づき、助けることができるのは、富や学識ではなく人です。「人は自らを牢獄から救い出せない」と書かれおり、友こそが人の気持ちを高めることができます。 これは、友が自分を落ち込んだ状態から生き生きとした状態へと引き上げてくれるという意味です。そうして、人は生きる力と自信を取り戻し、再び豊かさを感じるようになります。そして、すぐにでも目的が達成できるかのように動き始めるのです。 結局のところ、皆が友に気を配り、どうすれば友を助け、友の気持ちが高められるかを考えなければならない、ということです。なぜなら、人の気持ちについては、誰もが友の中に、友が愛を必要とする部分を見つけ、それを満たしてあげることができるからです。
「汝の友を汝のごとく愛せ」という戒律は私たちに何を与えてくれているのか?
「汝の友を汝のごとく愛せ」という戒律は私たちに何を与えてくれているのか?(編集中) 記事 第5番(1984年) 「汝の友を汝のごとく愛せ」というクラル(戒律かつ集団の意)は、私たちに何を与えてくれるのでしょうか? この戒律を通して、私たちはクリエーターを愛せるようになります。そうであるなら、612のミツボット(戒律)を守ることは、私たちに何を与えてくれるのでしょうか? まず、戒律とは何かを知る必要があります。ご存知の通り、集団(クラル)は多くの個人から成り立っています。個々の存在なしに、集団は成立しません。例えば、私たちが聴衆を「聖なる聴衆」と呼ぶ時には、集まって一つの単位となった複数の個人を指しています。その後、集団の長が任命されるなどの手順を経て、「ミニアム」(テン(10)/定数)や「会衆」と呼ばれるものになります。少なくとも10人が揃ってはじめて、礼拝で「ケドゥーシャ(ユダヤ教の祈りの一部)」を唱えることが可能になります。 これについて、『ゾハールの書』は「テン(10人)がいるところに、シェヒナ(神性)が宿る」と述べています。この意味は、10人がいる場所には、シェヒナが宿る空間があるということです。 したがって、「汝の友を汝のごとく愛せ」という戒律は、612のミツヴォットの上に成り立っているということになります。つまり、612のミツヴォットを守ることで、「汝の友を汝のごとく愛せ」という戒律を達成できるのです。結局のところ、個々の戒律を守ることで集合体になることができ、集合体となれれば、クリエーターの愛を獲得できるようになる、ということです。これは、「我が魂が主を慕う」と書かれている通りです。 しかし、人は単独では612のミツヴォットを守ることはできません。初子(ういご)の購い(あがない)を例にとってみましょう。初子が女児であると、初子の購いというこのミツヴォットを守ることはできません。また、女性はツィッツィットやテフィリンのような時間を要するミツボットを守ることを免除されています。しかし、「全イスラエルは互いに責任を負っている」ため、全体としてすべてのミツヴォットが守られているのです。まるで、皆で一緒にすべてのミツボットを守っているかのように。したがって、612のミツヴォットを通して、私たちは「汝の友を汝のごとく愛せ」という戒律を達成できるのです。したがって、612のミツヴァを通じて、私たちは「友を自分のように愛せ」という戒めを達成することができるのです。
友の愛 その2
友の愛 その2(編集中) 記事第2番(1984年) 「汝の友を汝自身のごとく愛せ」 ラビ・アキーバは「これはトーラーにおける重大な規則(ヘブライ語では「共同体の」とも意味する)である」と述べています。これは、人がこの規則を守れば、ほかの細かな戒律がすべてそこに含まれるという意味です。つまり、各戒律に対する努力をしなくても、自然にそれを達成するのです。 しかし、トーラーは「クリエーターが汝に求めておられるのは何か。それは、私を畏れよということである」と教えています。したがって、まず人に求められるものは、畏れであり、人がこの畏れの戒律を守るなら、トーラーとミツヴォット(戒律)のすべてがここに含まれます。「汝の友を汝のごとく愛せ」さえ含まれるのです。 しかし、ラビ・アキーバの言葉によれば、それは逆であり、畏れが「汝の友を愛せ」に含まれています。さらに、賢者たちによれば、この意味はラビ・アキーバの言っているようなものではありません。賢者たちは、「事の終わりに、すべてが聞かれた。神を畏れ、ミツヴォット(戒律)を守れ。それこそが、完全な人だからだ」(「ベラホット」p. 6)。という一節を引用しました。ゲマラーが「『それこそが、完全な人である』とは、どういう意味か?」と訊ねたところ、ラビ・エラザールは「クリエーターは、全世界はこのため以外に創造されることはなかったとおっしゃった」と言いました。しかし、ラビ・アキーバの言葉によれば、すべてが「汝の友を愛せ」に含まれているように思えます。 それでも、賢者たちの言葉(マコート24)では、「信仰が最も重要だ」とされています。そして、賢者たちは、ハバククが来て明言したのはたった一つ、「義なる者は信仰によって生きる」ということだけだと言ったのです。 マーシャは、これを「イスラエルのすべての者にとって、いついかなる時も、最終的に最も確かなものは信仰である」と解釈しています。言い換えれば、戒律の根本に信仰があるということです。したがって、畏れと「汝の友を愛せ」は両方とも信仰という規則の中に含まれています。 これを理解するには、次の点を詳しく調べる必要があります。 1.信仰とは何か? 2.畏れとは何か? 3.「汝の友を汝のごとく愛せ」とは何か? 最も重要なことは、常に「被造物に善を行う」という創造の目的を忘れずにいることです。しかし、クリエーターが被造物に喜びと満足を与えたいと望んでいるのなら、なぜ上述した3つ(信仰、畏れ、「汝のともを愛せ」)が必要なのでしょうか? それが意味するのは、被造物に必要なのは、自分たちの器をクリエーターの与えたい喜びと満足を受け取るにふさわしいものにするだけということです。 さて、ここでこの3つが私たちの器をふさわしくするのは何のためであるかを理解しなければなりません。信仰(信頼を含む)は、被造物に善を行うという最終目的に対する初歩的な信念を与えてくれます。また、私たちもその目的に到達できると自らに約束し、確実に信じなければばりません。つまり、創造の目的は、選ばれた特定の集団に限られたものではなく、例外なくすべての被造物のものなのです。必ずしも強い者や有能な者、勇敢な者が克服するのではなく、すべての被造物が克服する目的です。 (『10のセフィロトの研究への序文』をご覧ください。この第21項では、ミドラシュ・ラバの「これは祝福なり」から引用して、「クリエーターはイスラエルに言った。「見よ、すべて知恵とトーラーは容易である。私を畏れ、トーラーの言葉を実行する者の心には、すべての知恵とトーラーが宿る』」と述べています。) したがって、信仰を用いて目的を達成することに自信を持ち、道半ばで絶望してこの活動から逃げないようにしなければなりません。それどころか、クリエーターが自分のような低く卑しい者すら助けてくださることを信じるべきです。つまり、クリエーターが自分を近づけ、クリエーターとの内的交わりを達成できると信じるのです。 しかし、信仰を得るには、畏れが先に来なければなりません。これは、「ゾハールの書への序文」の次の部分に関連しています。「畏れはミツヴァ(戒律)であり、トーラーの全ミツヴァを含んでいる。なぜなら、畏れはクリエーターに対する信仰への門であるからだ。(クリエーターの導きに対する)畏れを目覚めさせることで、人はクリエーターの導きを信じるようになる」。 そして、「畏れとは、クリエーターに与える満足を少なくしてしまうのではないか、という畏れである」と締めくくられています。これは、人がクリエーターに持つべき畏れは、自分の得られる利について心配するのではなく、自分がクリエーターを満足させられないかもしれないと畏れるという意味です。つまり、信仰の門は畏れであり、ほかのどんな方法でも信仰を得ることはできません。 自分がクリエーターを満足させられないという畏れを獲得するには、まず授与することを欲し、切望しなければなりません。その後ではじめて、畏れを維持できないのではないかという畏れを持つ余地が生まれると言えます。しかし、通常、人が恐れているのは、おそらく自己愛が完全に満たされないことであり、クリエーターに授与できないということを気にかけていません。 では、人が授与をしなければならず、自己のための受け取りは間違いであるという新たな性質を獲得するには、どのような手段があるのでしょうか? これは、自然に反しています! 人はまれに、友人から聞いたり書物で読んだりして、自己愛を棄てなければという考えや欲求を受け取ることがあります。しかし、それはとても小さな力のため、絶えずその価値を認めて、これはトーラーのミツヴォットすべてにおける規則であると言えるほど、常にはっきりしているわけではありません。 したがって、助言はたった一つです。もし、複数の人が自己愛を棄てることに価値を見出す力をもって集まり、しかし、外の力なしには自立するのに十分な力も授与に対する重要性もないのなら……。もし、各自が他者の前で自分を無にし、皆が少なくともクリエーターへの潜在的な愛を持っていて、それを実践できないのなら……各自が社会に参加し、その前で自分を無にすることで、その人々は一つの体になります。 例えば、一つの体が10人で構成されていれば、1人の力の10倍の力を持つことになります。ただし、条件があります。皆が集まるとき、その一人ひとりが、いま自分は自己愛を無にする目的でここに来たと考えるというものです。これは、どうやって受け取りの意志を満たそうかと考えるのではなく、いまはできる限り他者への愛だけを考えるということです。これが、「授与の意志」という新しい性質を身につけられるよう、その欲求や必要性を得るための唯一の方法です。 そして、人は友への愛から、クリエーターへの愛に至ることができます。クリエーターを満足させたいという愛です。結局、この愛によってのみ、授与の重要性と必要性を求め、理解できるようになります。そして、これは友への愛を通してもたらされ、そうしてはじめて、畏れについて話すことができるようになります。つまり、クリエーターを満足させるような授与ができないという畏れについてです。そして、これを「畏れ」と呼ぶのです。 したがって、神聖な建物を築くための基盤は、「汝の友を愛せ」という規則になります。この規則を通じて、人はクリエーターに満足を与えるという必要性を得て、その後で畏れに至ることができるようになります。それは、クリエーターを満足させられないかもしれないという畏れです。実際に、畏れの門を通り抜けると、信仰に至ります。信仰がシェヒナ(神性)を宿す器であると、さまざまな箇所で説明されているように。 このように、次の3つの規則があることが判明します。一つめはラビ・アキーバによる「汝の友を汝のごとく愛せ」というものです。この規則に従う前は、たとえわずかでも、自分の状況を変える燃料が人に供給されることはありません。これは、自己愛を脱して他者への愛に向かい、自己愛を悪いものとして感じるための唯一の方法です。 次に、畏れという2つめの規則に至ります。バール・ハスラムが述べているように、畏れがなければ信仰を持つ余地がありません。 そして、最後に3つめの規則、それが信仰です。この3つの規則をすべて身につけた後、人は被造物に善を与えるという創造の目的を感じられるようになります。
人は常に家の梁(はり)を売るべきである
2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン3「真のつながりを妨げるもの」のメインテキストです。
※以前の訳のため、要調整(2026年2月8日現在)
(編集中) 友の大切さについて 第17番記事の第一部(1984年)(ラバシュ) 友の大切さ、つまり社会の中にいる友人たちをどう評価し、どう見なすかについて。 理性的な常識からは、もし自分よりも友が低い段階にいると見なせば、その人は友にもっと優れた性質を理解させ、身につけさせようとします。その場合は、友を「友」としてではなく「弟子」として扱っているため、対等な関係にはなりえません。 逆に、もし友のほうが自分よりも高い段階にあると見なし、友から優れた性質を学べると感じるならば、友を「師」として扱うことになり、やはり「友」にはなれません。 つまり、相手を友人として受け入れ、絆を深めることができるのは、友が自分と同じ段階にいるとみなした時ということです。「友」とは、互いに同じであることを意味するからです。これが理性の示す常識です。つまり、両者の意見や志向が同じで、共に関係を築こうと決め、共通の目的のために力を合わせようとしている場合です。 これは、志を同じくする友人同士が、利益を得ようと二人で商売をするようなものです。そのとき、両者は「等しい力」を持っていると感じているため、対等なパートナーとして共に働けます。しかし、もし一方が「自分の方が有能だ」と感じているならば、両者が等しい立場にあるとは言えなくなり、二人の関係は1/3や1/4といった取り分に応じた共同経営のようなものとなります。 愛に基づく友情である「友愛」には、互いに結びついた真の一体性が必要です。その状態は、明確に「対等であること」を意味します。これこそが「一体性(unity)」と呼ばれるものです。もし、一緒に事業をするにしても、利益を完全に平等に分け合うつもりでなければ、そこに一体性があると言えるでしょうか? 答えは明白です。真の友愛を通じて得られる利益や成果は、互いに隠し事なく、すべてを平等に共有し合う中でしか得られません。隠したり欺いたりすることなく、すべてが誠実さと愛と平和のうちに行われるべきなのです。 『マタン・トーラー(トーラーの授与)』には、こう書かれています。「崇高さ(greatness)※を得るには、2つの条件がある」。 常に社会から、その崇高さに応じた自分の評価を聞き、それを受け入れること。 「多くの民が王の栄光を表す」と書かれている通り、その環境が崇高であること。 ※1「崇高さ(greatness)」とは、クリエーター(創造主)またはスピリチュアル的現実に対する「偉大で高次の存在としての感覚」を指す。ヘブライ語の רוֹמֵמוּת(romemut) に相当し、カバラの用語では「クリエーターの偉大さの感覚」「信仰を通じて知覚される高み」のこと。 第一の条件を満たすためには、一人ひとりが自分は仲間の中で最も劣っていると感じる必要があります。そうすることで、皆から崇高さを受け取れるようになります。なぜなら、自分を高くしていると、自分より劣る者からは何かを受け取ることも、相手の言葉に感銘することもないからです。影響を受けるのは、常に劣っている側です。 第二の条件を満たすためには、一人ひとりが仲間の全員を、現世代の最も崇高な人であるかのように高く評価しなければなりません。そうすれば、その環境がまさに崇高な環境として自分に影響を与えてくれます。「質は量に勝る」からです。 ここから分かるように、友愛において、友を愛し、互いに助け合うということには、一人ひとりが友を「自分と同じ段階にある」と見なすだけで十分とも言えます。しかし、各自が友人から学ぶ必要があるため、そこには「師と弟子」という関係も生まれます。このため、友を「自分より崇高である」と見なす必要があるのです。 そうは言っても、自分の方が才能があり、優れた性質を持っていると思っているときに、どうしたら友を自分より崇高だと思えるのでしょうか? これには2つの方法があります。 信仰によって、理性を超えて見る方法(信仰の上に立つ) いったん友として選んだなら、その時点で理性を超えて自分より友を高くしているということ。 愛による自然な方法(理性の中で) もしその人を友とし、愛そうとするならば、愛の性質上、相手のよいところしか見えなくなり、たとえ悪いところがあっても、それが目に入らなくなります。これは、「愛はすべての罪を覆う」と書かれている通りです。 これは日常でも見られることです。人は他人の子の欠点は見えても、自分の子の欠点は見えません。そして誰かが自分の子を悪く言えば、すぐに反発し長所を語り始めます。 さて、これはどちらが合っているのでしょうか? 実際、自分の子には確かに長所があるため、他人に子の悪口を言われれば腹が立つのは当然です。このことについて、私の師であり父である方からこう聞きました──「実のところ、すべての人には長所もあれば短所もある。だから、父親も他人も、それぞれに真実を語っている。ただ、他人の子に自分の子のように接することはできない。なぜなら、その子に対して、父親のような愛情を持っていないからだ」。 つまり、他人の子を見るときにその子の欠点しか見えないのは、それがその人にとってより大きな喜びとなるからです。つまり、自分の子の方が優れていることを示し、自分のほうが徳が高いと見せるためです。そのため、他人の子には欠点しか見ないのです。その欠点は確かに真実なのですが、自分が楽しめることしか見ていないということです。 一方で、父親もまた真実だけを見てはいますが、子のよい点だけに目を向けています。なぜなら、子の欠点を見ても、何の喜びもないからです。そのため、父親は自分の子に見える真実を語っているものの、自分が喜びを得られるもの、つまり子の長所だけしか見ていないということになります。 このことから分かるのは──友愛には「友の欠点ではなく、長所だけを見る」という法則がある、ということです。したがって、自分が友に何らかの欠点を見るなら、それはその友に欠点があるのではなく、自分に欠点があるというしるしです。自分の友愛に欠けがあるために、友の欠点が見えてしまうということです。 したがって今、なすべきことは、友を正そうとすることではありません。むしろ、必要なのは自分が正されることです。以上のことから、自分の友に見ている欠点は「友が正すべき」ことではなく、自分が友愛において欠けている点を正すべきであるということになります。そして自分を正したときにはもう友の欠点は見えず、友の長所だけが見えるようになるのです。
集会の議題
(ヘブライ語からのAI翻訳、要編集) 集会の議題 1984年の記事第17番第2部 最初に集まるときには、一定の順序が必要です。すなわち、各自が自分の能力に応じて、社会の重要性について語るべきです。つまり、その社会が自分にどのような利益をもたらすのか、また自分自身では得ることのできない重要なものを、どのように与えてくれるのかを話します。そして、人は自分が期待するその価値の程度に応じて、社会を重んじるようになります。 これは、賢者たちが言ったことに基づいています。「人は常に、まず創造主の賛美を整えてから祈るべきである」とあります。これはモーセから学ばれます。「その時、私は主に懇願した」と書かれており、その前に「主なる神よ、あなたは…」と賛美が述べられ、その後に「どうか渡らせてください」と願いが続いています。 まず賛美を整えなければならない理由は、この世の習いによるものです。誰かに何かを求めるときには、二つの条件が必要です。第一に、その人が自分の求めているものを持っていることです。例えば富や能力があり、多くの豊かさと名声を持っていることです。第二に、その人が良い心を持っていること、すなわち他者に与えたいという意志を持っていることです。このような人に対しては、助けを求めることができます。 そのため、「人は常にまず創造主の賛美を整えてから祈るべきである」と言われています。すなわち、人が創造主の偉大さを信じ、あらゆる喜びを被造物に与える力を持ち、かつ善を行いたいと望んでいると認識した後に、祈ることができるのです。そうすれば、創造主が必ず助けてくださるという確信のもとで祈ることができます。なぜなら、創造主は善を与えることを望んでおられ、また人が望むものを与える力を持っておられるからです。 同様に、友愛においても、最初に集まるときには仲間の賛美を整え、それぞれの重要性を語る必要があります。社会の大きさをどれだけ評価するかに応じて、その社会を尊重することができるようになります。 その後に祈りに入ります。すなわち、各自が自分自身を点検し、自分がどれだけ社会のために力を尽くしているかを見ます。そして、自分にその力がないことが分かったとき、そこに祈りの余地が生まれます。すなわち、創造主が助けてくださり、他者愛に従事するための力と意志を与えてくださるよう願うのです。 その後は、「アミダー(十八祈祷)」の最後の三つの祝福のように振る舞う必要があります。すなわち、すでに願いが叶えられたかのように感じ、創造主がすでに求めを与えてくださったかのように考えます。 同じように、友愛においてもそのように振る舞う必要があります。すなわち、自分を点検し、祈りを行った後には、自分の祈りがすでに受け入れられたかのように考え、仲間と共に喜びの中に座ります。そして、すべての仲間が一つの身体であるかのように感じます。身体がすべての器官の幸福を望むように、自分もすべての仲間の幸福を望みます。 したがって、すべての計算の後には、友愛の喜びの時間が来ます。そのとき各自は、自分が今大きな利益をもたらす良い取引をしたかのように感じるべきです。この世の習いでは、そのようなときには仲間に飲み物を振る舞います。同様にここでも、各自は仲間に飲み物や菓子などを与えるべきです。なぜなら、自分が喜びの中にあるとき、仲間にも良い状態を感じてほしいと望むからです。 したがって、集まりが終わるときには、喜びと高揚の中で終わる必要があります。 これは「トーラーの時間」と「祈りの時間」に対応しています。「トーラーの時間」とは完全性の状態であり、そこには欠けがありません。これは右の性質と呼ばれます。「右から彼らに火の律法が与えられた」と書かれている通りです。一方、 「祈りの時間」は左と呼ばれ、不足の場所であり、修正が必要な状態です。これは「器の修正」と呼ばれます。 これに対して、「トーラー」は右に属し、修正の場所ではありません。そのため「贈り物」と呼ばれます。贈り物は愛する者に与えられるものであり、この世の習いでは、人は欠けを感じる者を愛することはありません。 したがって、「トーラーの時間」には修正について考える場所はありません。そして集まりを終えるときには、前述のように「アミダー」の最後の三つの祝福の状態のようであるべきです。そのため、すべての人が完全性を感じることができます。
あなたがたは今日、皆ここに立っている
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1986年の記事 第17番
十人未満の会衆というものはない
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