2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン3「真のつながりを妨げるもの」のメインテキストです。
※以前の訳のため、要調整(2026年2月8日現在)
「人は常に家の梁(はり)を売るべきである」
ラバシュによる1984年の記事 第9番
ラビ・イェフダは「ラヴは『人は常に家の梁を売り、足に靴を履くべきだ』と言ったのだ』と言った」(シャバット 129)。我々は家の梁に関する正確さと、靴の重大さを理解すべきです。自分の足にその靴を履かせる力が得られるように、つまりその靴のためなら自分の家の梁を売る価値があるとわかるようになるまで、理解しなければなりません。
我々はそれを我々の作業に関連させて解釈すべきです。家のコロット(梁)とは、ミクレー(出来事/事件)という言葉に由来しています。つまり人が自分の家で経験する全ての出来事のことです。我々が人を見るとき、そこには二つの識別法があります。一つは知性を伴ったもの、つまり知識です。そしてもう一つは心の中で感じるもの、つまり感情です。これらによって我々は、自分たちが幸せかどうかを判断しています。
これらの出来事を経験すると、日々の生活の中から疑問が湧き上がってきます。それは自分とクリエーターの関係性や、自分と友達との関係性に関するものです。
自分とクリエーターの関係性に関する疑問とは、クリエーターがその人の要求をすべて満たしてくれないという不満です。つまり、善なる者は良いことをするというのが法則なのだから、クリエーターは人が必要だと思うものを満たすべきだと感じているのです。そしてまた、時々それとは全く正反対のことを感じているかのように不満を漏らします。つまり他者の方がより高い段階にいて、自分は常によりひどい状況の中にいるのだと訴えるのです。
要するに、彼は「スパイたち」と呼ばれる状態にあり、神の摂理というものを誹謗中傷しています。彼は人生を楽しむことができず、喜びを感じていないからです。そのため「人生には良いことしか起こらず、私は常に神の愛を受けている」などとは言い難いのです。その結果、彼は「スパイたち」という状態に陥ります。
我々の賢者たちはそれについて「人は善に感謝するように、悪にも感謝しなければならない」(ベラホット(祝福)54)と言いました。なぜならユダヤ主義の基本は、理性を超えた信仰の上に築かれているからです。これは、知性によって引き起こされる人の考えや言動に頼るのではなく、より高い神の摂理、善への信仰を頼りにするということ。そして、正確に神の摂理を正当化することによって、人は後に報われ、喜びや楽しみを感じるようになります。
自分の全ての願いを叶えてくれなかったと言ってクリエーターに詰め寄る者に関して、バール・ハスラムはひとつの寓話を与えました。それは小さな子どもを連れて通りを歩いている人の話です。その子どもはひどく泣いていて、通りにいる人は皆、その父親を見てこう思います。「なんて残酷な男だろう。自分の息子が泣いているのに、全く気を配ろうともしない」。通りの人々ですら、その子どもの泣き声を聞いてかわいそうにと思うのに、彼の父親であるその男はそうではないのです。ここには「父は子を愛するが故に」という規則があります。
その子どもの泣き声を聞いた人々は、父親のところに行って「あなたに慈悲はないのか?」と問いただしました。すると彼は「目の中に入れても痛くないほどかわいい我が息子に、自分の目がかゆいから、その目をかけるように針をくれと言われたら、私に何ができる? 彼の言う通りにしないからといって、私は『残酷』なのか? それよりも、それで目をついて失明したりしないように、それを与えないことの方が慈悲ではないのか?」と答えました。
従って、クリエーターが与えてくれるものは、すべて我々のためであると信じなければなりません。とはいえ、クリエーターがこれらの困難を取り除いてくれるように祈る必要もあります。しかし、祈りとその祈りが叶うことは別個の問題です。つまりこの寓話のように、我々がすべきことをしていれば、クリエーターも我々にとって良いことをしてくれるということです。これについては「主は自らが良いと思われることを行うであろう」と言われています。
その同じ原理、つまり自分の家の梁を売り、自分の足に靴を履かせるという原理は、友達にも適用されます。言い換えると、自分の家の梁、つまり自分の家が友達への愛に関して経験した全ての出来事を、売るべきだということです。
友の愛に関して一生懸命に働いていても、その友には自分を助けようとする態度が全く見えず、その結果人は友に対して疑問や不満を抱くかもしれません。彼らは、友の愛のあるべき姿をまったく理解せずに動いています。つまりお互いに優れた人同士のように、敬意を込めて友に話しかけていないということです。
また行為という点で、友達の側に友の愛に関する行為が全くないように見えます。それどころか全てが普通であり、共に進むことや、各自が他者の幸せの世話をするという友の愛が存在する社会、そういう社会を築くと決意することに、まだ興味を持っていない平凡な人達の間にいるかのように感じます。
こうして人は、友の愛に従事している者など誰もいないと感じるのです。人は自分が正しい道を歩いている唯一の者であると感じ、全ての者を軽蔑の眼差しで見ます。これは「スパイ」と呼ばれます。つまり彼は友達を監視しているのです。「汝の友を愛せよ」に関して、彼らが自分に対し適切に振る舞っているのかどうかを見張っているのです。そして、他者への愛が最も重要だと説く友達の言葉が一日中耳に入るため、その彼らの言動が一致しているかどうかを知りたいと思います。
その結果、彼はそれが全て口先だけであるとわかります。それは他者への愛に関する最も小さなあり方であるにも関わらず、話すときですら他者への愛が全くありません。つまり誰かに質問をしたとしても、ぶっきらぼうで無関心な返事が返ってくるのです。それは友に対する答え方ではありません。それどころか、それは完全に冷たく、まるで彼を追い払いたいかのようです。
「他者への愛について考えているなら、なぜ友のあら捜しをし、あなたを愛しているかどうかを気にするのか? それではまるで、友の愛が自己愛の上に築かれていて、だから私が、自分のためにこの作業から何を得られたかを知りたがっているみたいではないか?」などと私に言わないでください。私はそのようなことを考えてはいません。私はただ本当に他者への愛を求めているのです。
だから私はこの社会を築くことに興味を持ったのです。そうすればすべての者が他者への愛に従事しているのを見て、他者への愛に関する自分の中の小さな力が強まっていき、自分では不可能なレベルまで、より強く他者への愛に従事する力が持てるからです。しかし今、私は何も獲得していません。なぜなら誰一人として善をなしていないからです。従って、私はそのような者たちと一緒にいない方が良かったし、彼らの行為から学ばない方が良かったのです。
これに対して1つの答えがあります。つまり、もし社会がある特定の人々で構成されているなら、彼らが集まった時、そこにはこの「一団」を築くことを特に願った者がいたに違いないということです。彼はこれらの人々を選別し、お互いにふさわしい人物であることを確認したっのです。言い換えると、彼らは皆、他者への愛の火花を持っていました。しかしその火花では各自の中に愛の光を灯すことができなかったため、彼らは団結することによって、その火花を大きな炎にすることに同意したのです。
このため、今また彼らをスパイしているのであれば、それを克服し「この社会が築かれたとき、他者への愛の道を歩まねばならないと全員が一致団結していたように、今もそうである」と言うべきです。そして全員が友達を好意的に評価すれば、全ての火花はもう一度点火され、再び1つの大きな炎となるでしょう。
それは、かつてバール・ハスラムがトーラー(創世記 21:27)の中に次の一節を見つけ、二人の友達が結ぶ契約というものについて尋ねて言ったことと同様です。彼は「アブラハムは羊と牛を連れてきてアビメレクに与え、そしてふたりは契約を結んだ」という一節を見つけ、こう尋ねました。「もし彼ら二人がお互いを愛しているならば、もちろん彼らはお互いに親切にするだろう。しかし何らかの理由で愛が衰え、彼らの間に愛がなくなると、当然の如く彼らはお互いに親切ではなくなる。だとしたら、彼らの間で契約を結ぶということが、どのように役に立つのか?」
彼は、彼らがする契約は今現在のためではないと答えました。なぜなら彼らの間に愛が感じられる今、契約を結ぶ必要はないからです。むしろ、契約を結ぶことは将来のために意図的に行われます。つまり、しばらくすると今感じているような愛を感じなくなるが、それでも彼らの関係を以前のように持ち続けることは可能だということです。これが契約を結ぶ理由です。
そしてまた、この社会が築かれたにときにあったような愛が今感じられないとしても、全員が自分の見解を乗り越え、理性の上に進まなければならないことがわかります。それによって全てが是正され、一人ひとりが自分の友を好意的に評価するようになるですぴ。
今や我々は「人は常に自分の家の梁を売り、足に靴を履くべきである」と言った我々の賢者たちの言葉を理解することができます。ミナリヴ(彼の靴)はネイラット・デレット(ドアに鍵を掛けること)という言葉に由来します。つまり閉じるということです。リゲル(スパイする)はラグライム(両足)という言葉に由来しますが、いったん人が自分の友をスパイしたら、彼は「自分の家の梁を売る」べきです。つまり自分と友のつながりに関して自分の家で起きたことすべての出来事、彼が所有している複数のスパイ(友を誹謗する者たち)を売るべきです。
そして「すべてを売る」とは、複数のスパイが彼にもたらした全ての出来事を取り除くということを意味しています。そしてその代わりに足に靴を履くということです。つまり、彼らがもはや地上に存在しないかのように、そのスパイたちを閉じ込めるということです。そして人は、自分が所有する全ての疑問と要求をしまい込みます。そうして、その場の全てのものが平和へと至るのです。