2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン5「テン(十人)の中からの祈り」のレッスン教材です。
※2026年2月13日更新
多くの者の祈り
1986年の記事 第15番
『ゾハールの書』(ベシャラハ、3頁)およびスラムの解釈(第11項)には、次のように記されています。その文言はこうです。
「彼女は言った。『私は自分の民の中に住む』。
彼は問う。『それは何を意味するのか』。
彼は答える。『すなわち、裁き(ディン)が世界に懸けられている時、人は共同体から離れて、ひとりになってはならない。なぜなら、裁きが世界に懸けられている時、目に留まり、名指しで記されている者たち、すなわちひとりでいる者たちは、たとえ正しい者であっても、真っ先に捕らえられてしまうからだ。
それゆえ、人は決して民から離れてはならない。クリエーター(創造主)の慈悲は、常に民全体の上にあり、民と共に存在しているからである。このため、彼女は『私は自分の民の中に住む』と言い、『民から離れたいとは思わない』と言ったのである」。
「裁き(ディン)が世界に懸けられている」とは、受け取ろうとする欲求のことであり、自己愛を意味します。これは、被造物に善をなそうとするクリエーターの意志の力によって、被造物が生まれながらに持っている性質であることは周知のとおりです。
そして、形態の同等性を望む意志があるゆえ、恥のパン(ネハマ・デ・キスファ)が生じないようにするため、受け取りの器を用いることは禁じるという裁き(ディン)が下されました。ただし、受け取ることを「与えるために受け取る」という意図に向けることができると自覚している時に限り、受け取りの器を用いることが許されます。
したがって、「裁きが世界に懸けられている時」とは、全世界が自己愛に浸っている状態を意味します。そのとき、世界には闇が宿ります。なぜなら、光と、光を受け取る被造物の形態に相違があるため、光が被造物のもとへ、すなわち下方に引き寄せられる余地がないからです。この形態の相違ゆえに、上からの豊かさ(シェファ)は被造物に注がれない、という裁きが下されたのです。
したがって、人が目覚め、クリエーターが自分を近づけてくださることを望むとき、すなわち、授与の器を与えてもらうことを望むとき、人はクリエーターに助けを求めます。この授与の器を望むことは「近づける(キルヴ)」と呼ばれます。しかし、クリエーターから来る助けは「上からの豊かさ(シェファ)」と呼ばれ、それは「ネシャマ(魂)」という名で呼ばれることが知られています。『ゾハールの書』が言うように、上から受け取る助けとは、「聖なる魂(ネシャマ・カディシャ)」なのです。
このため、人がクリエーターに対して近づけてくださるよう願い出るとき、もしその人が「ひとりでいる者」として見られているなら、それは、クリエーターが自分を個人的に近づけなければならないと理解していることを意味します。しかし、なぜその人は、共同体全体は今の状態のままでよく、ただ自分だけがクリエーターに別扱いされるべきだと考えるのでしょうか。
それは、その人が自分には他者には見られない優れた点があると理解しているからです。自分は他の者たちよりもクリエーターに近づくに値すると考え、自らを正しい者だと考えるがゆえに、共同体に属さない個々人は、真っ先に捕らえられてしまいます。すなわち、自己への受け取りである裁き(ディン)が、共同体の他の者たちよりもその者たちの上に強く懸けられ、その結果、その者たちは自己愛の性質において、よりいっそう悪化していきます。
これは、その者が自分は他の人々よりも多くを与えられるべきだと考えているからです。すなわち、他の人々には今持っているもので十分だが、自らを省みて、自分は他の人々よりも多くを受け取るに値すると考えているのです。この思考は、まさに受け取りそのものであり、すなわち百分の百の自己愛です。その結果、自己愛という性質が、その者の内で他の人々よりも強く発達し始めるのです。
このようにして、その者は常に自己愛の中で働くことになります。しかし、その者自身の目には、自分は正しい者に見えています。なぜなら、その者は「与える者」として働きたいと望んでいるからです。
すなわち、その者は自分がクリエーターに対して、自分を近づけてくださるよう願い求めていることこそが正しさであると、自分に言い聞かせているのです。なぜなら、その者が何を求めているのかと言えば、クリエーターが、与えるためにトーラーとミツヴァ(戒律)を守る力を与えてくださることだからです。王に仕えたいと願うことに、いったいどのような欠点があるのでしょうか。
これによって、聖典『ゾハールの書』の言葉を解釈できます。その書は、内なる要求を持つ者たち、すなわち、自分が置かれている状態に満たされることができない者たちに助言を与えているのです。なぜなら、その者たちはクリエーターへの務めにおいて何の進展も見いだせず、また、次のような聖句を信じているからです。
そのひとつが、「あなたの神、クリエーターを愛し、その御声(みこえ)に聞き従い、クリエーターに結びつくこと。これこそがあなたの命であり、あなたの日々の長さである」(申命記 第30章 第20節)です。
そしてその者たちは、自分たちに愛とデヴェクート(結合/内的交わり)が欠けていることを見ており、トーラーの中にある命を感じることができません。さらに、聖句が語っていることを自分の器官の中で感じられるようになるための助言を、どのように自分の魂の内に確立すればよいのか分からずにいます。
その助言とは、共同体全体のために求める、というものです。すなわち、自分に欠けていると感じるものがあり、それを満たしてほしいと求めるとき、自分が例外であるかのように考えてはなりません。つまり、共同体全体よりも、自分の方が多くを受ける資格がある、などと言ってはならないのです。そうではなく、「私は自分の民の中に住む」と言うべきです。
すなわち、共同体全体のために求めるのです。なぜなら、自分のために何かを気遣うことのない状態、ただクリエーターに満足(ナハト・ルアハ)をもたらすためだけに生きる状態に到達したいからです。それゆえ、クリエーターが私から喜びを得ても、あるいは他の人たちからその喜びを得ても、自分にとっては何の違いもありません。つまり、「すべてがクリエーターのため」と呼ばれる理解を、私たちに与えてくださいとクリエーターに祈るのです。それは、自分がクリエーターに与えたいと願っていることで、自分自身を欺いていないと確信できる理解です。なぜなら、実際には、自己愛、すなわち自分が善と喜びを感じたいという欲求だけを考えている場合があるからです。
それゆえ、その者は全体のためにクリエーターに祈ります。すなわち、もし全体の中に、クリエーターとのデヴェクート(結合/内的交わり)という目標に到達できる人が何人かおり、そのことによって、その者自身がクリエーターに近づくよりも、より大きな満足(ナハト・ルアハ)がクリエーターにもたらされるのであれば、その者は自分自身を放棄します。すなわち、自分のことは脇に置き、クリエーターが彼らを助けてくださることを望むのです。なぜなら、自分がクリエーターに務めることによって生じるものよりも、はるかに大きな満足(ナハト・ルアハ)が上に生じるからです。
この理由から、その者は全体のために祈ります。すなわち、クリエーターが全体を助けてくださり、さらに彼ら(全体)に、クリエーターに満足(ナハト・ルアハ)を与えることができるという感覚、そしてそのことから満たしを受け取るという感覚を与えてくださるようにと祈るのです。
しかし、あらゆることに下からの目覚めが必要であるため、その者は下からの覚醒を与えます。一方で、上からの覚醒を受け取るのは他の人々であり、それはクリエーターが、御自身にとってより大きな益となるとわかっている人々です。
したがって、もしその者にこのような祈りを求める力があるなら、それは、間違いなく、その者がその祈りに同意しているかどうかを試す真の試験となるでしょう。しかし、もしその者が、自分が口先だけで言っていると知っており、しかも身体(欲求)が受け取る要素が一切混じらない、真に純粋な授与の祈りに同意しないのを見るならば、そのときその者はどうすればよいのでしょうか。
この場合、知られている助言はたった一つです。それは、クリエーターに祈り、理性を超えて、クリエーターはその者自身と全体を助けることができると信じることです。そして、すでに何度も祈ったにもかかわらず、その祈りが聞き入れられなかったのを見て心を乱してはなりません。なぜなら、それは人を絶望へと導き、身体がその人を嘲(あざけ)り次のように言うからです。
「ほら見ろ、お前は何もできないではないか。絶望しかないではないか。しかも今、お前は、人の理性では受け入れられないことについて、クリエーターに満足(ナハト・ルアハ)を与えさせてくれと願っているのだ」。
そして、身体はさらに主張します。
「それどころか、私に言ってみよ。クリエーターが、理性で受け入れられないようなものを与えてくださることを望む敬虔な人や実践家がどこにいるのか。しかも、お前は自分で見ているではないか。クリエーターに救いを求めたにもかかわらず、今お前が要求していることよりもはるかに小さなことについてでさえ、まだ受け取っていないではないか。
それなのに今、お前は非常に大きく重要なことについて、クリエーターに求めようとしている。すなわち、全体のために務める力を与えてほしい、そして、お前によって全体が善と喜びに値するようにしてほしいという祈りは、世界にそれほど多くないからだ。これは、自己愛が一切混じらない、純粋で清らかな授与と呼ばれるものである」。
「そして、お前は考えている。小さなことについてさえ祈りが受け入れられなかったのに、ましてやこれほど大きく重要で、きわめて稀なことは、なおさら受け入れられるはずがない、と」。
たとえば、こう考えてみましょう。ある人物の家には、極めて希少で、選ばれた少数の人々のもとにしかない器があり、それを見つけるには世界中を探し回らなければならない、としましょう。そこへ、かろうじて普通の器を持つ中流の人物がやって来て、突然、自分もその選ばれた人々のもとにある器を手に入れなければならない、という考えを思いついたとします。これを聞いた人々は、彼を笑うに違いありません。
これは、私たちの場合も同じことです。知恵に富んでいるわけでもなく、中流以下の状態にありながら、クリエーターに、世界の中でも選ばれた少数の者たちのもとにしかない器を与えてほしいと願うとき、身体そのものがその人を嘲(あざけ)ります。
「お前のような愚か者が、どうして、知恵に富む者の間にすらないようなものをクリエーターに求めようという気になったのか。こんな馬鹿げたことのために務める力を、どうして私がお前に与えられるというのだ」と言うのです。
ここから、真の務めが始まります。なぜなら、この世における人の務めとは、「受け取るために受け取る者」と呼ばれる邪悪な性向の支配から出ることだからです。今、その者は、クリエーターが自分を助け、自己の受け取りが一切混じらない、清らかで純粋な授与の道を歩ませてくださることを望んでいます。
この務めは、まさに悪に正面から逆らうものです。なぜなら、悪は自分の所有物を一切手放したくないのに対し、その者は今、これから先の務めが受け取りの欲求のためでないように願っているからです。そして、それだけでなく、過去において自分のために行い、受け取りの欲求の領域に記録されたすべての行いまでも、クリエーターの領域へと移したいと願っています。
したがって、今その者は、クリエーターに対して、悔い改めを行う力を与えてくださるよう祈っています。すなわち、受け取りの欲求を満たすためになされたすべての行いを、過去のものも未来のものも含めて、すべてクリエーターの領域へと返す力を、クリエーターが与えてくださるようにと祈っているのです。これは、ランバム(ラビ・モーシェ・ベン・マイモン/『悔い改めの法』第2章)が述べているように、悔い改めは過去についても必要であるという教えと一致します。ランバムは次のように述べています。
「悔い改めとは何か。それは、罪を犯した者がその罪を捨て、それを自らの思いから取り除き、二度とそれを行わないと心に決めることである。『悪しき者はその道を捨てよ』とあるとおりである。また、過去を悔いることは、『悔い改めた後、私は悔いた』とあるとおりである。そして、すべての隠れたことを知る方が証人となり、その人が決して再びこの罪に戻らないことを証明するのだ」。
これによって、多くの者による祈りの重要性が理解できます。「私は自分の民の中に住む」と書かれているように、『ゾハールの書』は次のように述べています。
「それゆえ、人は決して民から離れてはならない。クリエーターの慈悲は、常に民全体の上にあるからだ」。
その意味は次のとおりです。
もし人が、「クリエーターが慈悲深い方であるように、汝も慈悲深くあれ」と賢者たちが言ったように、授与の器を与えてくださるようクリエーターに願うのであれば、その人は全体のために祈らなければなりません。なぜなら、そのとき初めて、その人の意図が、クリエーターが純粋な授与の器を与えてくださることにあると明らかになるからです。
なぜなら、クリエーターの慈悲は、常に民全体の上に共にあるからです。また、よく知られている「上から半分のものが与えられることはない」という言葉の意味は、上から下へと豊かさが与えられるのは、全体のためである、ということです。
この理由から、人は全体のために願い求めなければなりません。なぜなら、上から来る豊かさ(シェファ)はすべて、常に民全体のために来るからです。これが、「クリエーターの慈悲は、常に民全体の上にある」と言われるゆえんです。
したがって、ここには二つの意味があります。一つは、前述のように、純粋な授与のためであるなら、本来は自分以外の一人のために祈るだけでも十分であったという点です。しかし、もう一つの側面があります。それは、人は完全なものについて願い求めなければならない、ということです。なぜなら、スピリチュアリティにおいては、来るものは常に完全であり、区別(受け取り方の差異)はただ受け取る者の側から生じるからです。この理由から、人は全体のために願い求めなければならないのです。
そして、豊かさ(シェファ)が全体に来る以上、光なくして器はなく、満たしが入るための欠乏がなければ、満たしを受け取ることはできません。ゆえに、その者は、多くの者のために祈ることによって、答えられるのです。これは、賢者たちが「友のために慈悲を求める者は、まず自分が答えられる」(ババ・カマ92b)と言ったことと同じです。その意味は、前述のとおり、豊かさは全体のために来るが、全体には器が欠けている、ということです。
つまり、上から来る豊かさそのものは民全体にとって十分なものであるのに、欠乏、すなわち器が存在していません。そのため、民全体は上から来る豊かさ(シェファ)を得ることができないのです。これに対して、その者は欠乏を持っているため、最初に答えられるのです。