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2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン4「「テン(十人)における相互保証」」のメインテキストです。

※2026年2月20日更新

あなたがたは今日、皆ここに立っている

1984年の記事 第19番

注解者たちは、次のように書かれている箇所について問いを立てています。

「あなたがたは今日、皆ここに立っている。あなたがたのかしらたち、あなたがたの部族、あなたがたの長老たち、あなたがたのつかさたち、イスラエルのすべての人(各人)」。

文は複数形の「あなたがた」で始まり、最後は単数形の「イスラエルのすべての人(各人)」で締めくくられています。『マオール・ヴァ・シェメシュ(太陽と光)』の著者は、これについて次のように説明しています。

「複数形と単数形の両方で語られているのは、「友愛(愛の友)」という事柄をほのめかしている。すなわち、あなたがたの中に「かしらたち、部族たち」などの区別があったとしても、それにもかかわらず、各人は自分が他のイスラエルの誰よりも優れているとは見なさず、皆が等しいと見る。むしろ、互いに不平を言わず、その点において皆が等しい。そのため、上からもまた、それに応じた扱いがなされ、それゆえあらゆる善が下に与えられるのである」。

さて、われわれの道に従えば、すなわち、すべてを一つの主題の中で学ぶという立場からすれば、これについては次のようになります。

人は自らに「天の王国(マルフート・シャマイム)」を、「軛(くびき)を負う牛のように、荷を負うろばのように」受け入れなければなりません。これはモーハー(頭脳)とリバー(心)の側面です。すなわち、人のクリエーターへの務めは、すべて「与えるため」でなければなりません。

このことから分かるのは、もし人がその務めを「与えるのために」行い、何の見返りも望まず、ただ聖なる務めに従事したいと願い、自分が持っているもの以上のものを追加で与えられることを期待しないということです。すなわち、務めの中でのいかなる追加も望みません。つまり、自分が正しい道を歩んでいるという何らかの認識を受け取ることさえも望みません。もちろん、それは正当な要求ですが、それでさえ放棄します。なぜなら、目を閉じてクリエーターを信じる道を歩みたいと願うからです。自分にできることを行い、自らの分に満足しているのです。

そして、クリエーターへの務めについて多少の理解を持つ人々がいると感じ、自分はまったく空っぽであると見ることさえあります。つまり、自分も務めの中に味わいを感じることが多々あり、時には自分が「あなたがたのかしらたち」の状態にあると感じることもあるのです。すなわち、今や自分はある段階に到達し、もはや卑しさの状態に落ちる現実はあり得ない、と考えることがあります。

卑しさの状態とは、クリエーターへの務めに従事したいと思うなら、自分の身体を強いるために大きな努力を要する状態のことです。そのときの行為は強制によるものであり、務めに対して何の欲求もなく、身体はただ休息だけを望み、何にも関心を持ちません。

しかし、そのときには、すでに明確な認識に到達したと感じています。すなわち、この世には「与えるため」に従事する以外に何もない、と。そして、そのときは確かに務めの中に味わいがあります。

そして、これまでのさまざまな自分の状態を振り返ると、いまは上昇の状態にあるために、それが理解できません。それゆえ、あらゆる計算の結果、いまはもはや下降が訪れる可能性はないと決めるのです。

しかし、時には一日、あるいは一時間、あるいは数分が経った後には、卑しさの状態へと落ちます。しかも、上昇の状態から「大いなる深淵の底」へ落ちたことを、その場では感じないことさえあります。そして、その一時間か二時間後に、突然、自分が高みから落ちたことに気づきます。

すなわち、すこし前まで自分は「男たちの中の勇士」であると確信していたのに、今や「イスラエルのすべての人(各人)」、すなわち民衆と同じであると感じるのです。そしてそのとき、自分の内で策を巡らし始めます。――今、私は何をすべきか。いかにして再び、以前の偉大さの状態へと自分を引き上げることができるだろうか、と。

それゆえ、人は真実の道を歩まなければなりません。すなわち、こう言うのです――「いま自分が完全な卑しさの状態にあるのは、天から意図的に投げ落とされたのだ。それは、私が本当に“与えるため”という理由から聖なる務めをしたいのか、それとも、この務めが他の何よりも自分により大きな満足を与えてくれるからクリエーターの僕でありたいのかを、私自身が知るためである」と。

そしてもし人がこう言えるなら、再び聖なる務めの中に入ります。

「いま私は授与のために務めたいのであり、務めの中で何らかの満足を受け取るために聖なる務めをしたいのではない。それは、これだけで十分である――すなわち、イスラエルのすべての人のように、祈りに行ったり、『ダフ・ヨミ』の学習の一課を学んだりと、そのように聖なる務めを行うこと自体で十分である。そのときは、自分がどのような意図で学び、祈っているかを考える時間もなく、特別な意図もなく、ただ単純に行っているだけである」。

なぜなら、いまは、何の前提条件もなしに、ただ単純にクリエーターの僕でありたいと望んでいるからです。

これが「あなたがたは今日、皆ここに立っている」と書かれている意味です。すなわち、あなたがたが通ってきたすべてのこと、経験してきたあらゆる状態――偉大さ(ガドルト)の状態もあれば、偉大さ未満の状態(中間的な状態と見なされる状態)など――それらすべてをそのまま受け取り、段階の高低を重視しないということです。なぜなら、あなたがたにとっていかなる報酬も問題ではなく、重要なのはただ、クリエーターの御心(みこころ)を行うことだけだからです。クリエーターが私たちにミツヴォット(戒律)を行い、トーラーを学ぶよう命じられた、そのことを実行することであるからです。それを、ごく普通のイスラエルの一人のように行うのです。

すなわち、いま自分が置かれている状態が、自分にとっては偉大さの状態にあると考えていたときと同じほど重要ということです。そのとき、「あなたの神、クリエーターは、今日あなたと契約を結ばれる」のです。

すなわち、そのときクリエーターはその人と契約を結ばれるのです。つまり、クリエーターへの務めを、何の条件もなく受け入れ、いかなる報酬もなしに聖なる務めをすることに同意するときのことです。これが「無条件の服従」と呼ばれるものであり、そのとき、クリエーターは人と契約を結ぶのです。

契約を結ぶということについて、私の父であり師であったバール・ハスラムは次のように説明しました。二人が互いに愛し合っているとき、彼らは永遠にその愛にとどまるよう、互いに契約を結びます。

バール・ハスラムは尋ねました。

「もし二人が互いに愛し合い、その愛が決して途絶えないと理解しているなら、なぜその契約は必要なのか。何のためにその契約を結ぶのか。どのような利益のためか。すなわち、契約を結ぶことによって何を得るのか。それは単なる儀式なのか、それとも何らかの利益のためなのか」。

そして彼は言いました。契約を結ぶことの意味はこうである。

「いま彼らは、互いに相手を愛することが自分たちにとって良いことであると理解している。それは、いま彼らが見ていること、すなわちそれぞれが相手を、自分の益のみを気遣ってくれる存在として見ているからである。それゆえ彼らは契約を結ぶ。いまは誰も相手に対して何の不満も持っていない。もし不満があれば契約など結ばないであろう。だからこそ、彼らは互いに言うのである。『私たちは、この契約を一度きり、永遠のものとして結ぶのがよい』」と。

すなわち、万が一、将来、互いに対して不満が生じるような状態になったなら、そのとき各自は、かつて自分たちの間に愛が明らかであったときに結んだ契約を思い出すのです。

同様に、いま彼らが以前ほどの愛を感じていないとしても、それでもかつての愛を呼び覚まし、いま自分たちが置かれている状態を見つめるのではなく、再び互いに善を行います。これが契約を結ぶことの効用です。

すなわち、彼らの間にあった愛がその味わいを失っていたとしても、契約を結んだという事実によって、以前にあった輝かしい愛を呼び覚ます力を持つことになります。こうして、その愛を再び未来の中へ取り入れるのです。

以上から分かるのは、契約を結ぶことの本質は未来のためにあるということです。それは、かつてのような愛の結びつきがないと気づくときが来ても、後悔して離れてしまわないようにするための、一種の契約書のようなものです。なぜなら、その愛によって、かつては互いに善を行い合うことで、大きな喜びを得ていたからです。ところがいま、その愛が損なわれたために、その結果として、他者のために何かをする力がなくなってしまっています。

それでもなお、友のために何かをしたいと望むなら、そのときはかつて結んだ契約を見つめ、そこから改めて愛を築き直さなければなりません。それは、人が友と契約を結んだなら、その契約が彼らを結びつけ、互いに離れることができないようにする、というのと同じです。

以上から、「あなたがたは今日、皆ここに立っている」とあるのであって、その意味は次のようになります。すなわち、人は「あなたがたのかしらたち、あなたがたの部族、あなたがたの長老たち、あなたがたのつかさたち、イスラエルのすべての人」を思い起こします。

つまり、かつて自分がどんな高い段階にあっても、今では「イスラエルのすべての人」の状態にあると見なされます。そしてその状態を、自分が良いと考えていた状態にあったときと同じように引き受けて、こう言うのです。

「私は自分のすべきことを行う。クリエーターが私に与えたいと思われることには同意する。それには何の批判もない」と。

そのとき、前述のように契約を結ぶに値するようになります。すなわち、その結びつきは永遠に保たれます。なぜなら、クリエーターが永遠の契約を結ばれるからです。

以上に基づいて、(ニツァヴィームの箇所の)次の聖句を解釈できます。

「隠されたことは、私たちの神、クリエーターに属し、顕されたことは、私たちと私たちの子孫に永遠に属する。それは、このトーラーのすべての言葉を行うためである」。

この聖句が何を私たちに告げようとしているのかを理解しなければなりません。

この聖句が、隠されたことは私たちには分からず、ただクリエーターだけが知っておられるのだ、と告げるためのものとは言えません。なぜなら、この聖句がなくても、私たちが自分たちに隠されていることを知らないのは明らかだからです。それでは、この聖句は何を知らせようとしているのでしょうか。

実際には、誰もが隠されたものと顕れたものがあることを知っています。すなわち、私たちが行うことのうち、行為の部分は、私たちに見えています。つまり、それを行っているかどうかがわかります。もし、身体がそのミツヴォット(戒律)を行うことを望まないなら、方法が一つあります。それは、自分を強いて、いやでもそのミツヴォットを行わなければならないようにすることです。したがって、顕れた事柄については、強制が言えるのです。

隠されたこととは、ミツヴォットの意図です。これは、他者が行為をする際に何を意図しているかを見ることはできない、ということです。また行為をしている本人も、その行為の最中に自分を欺いていないかどうかを知ることはできません。人は、自分には他の意図はなく、すべてがクリエーターのためであると思っています。

しかし、行為の中でもこの「顕れた部分」と呼ばれるものについては、人が自分を欺いているとは言えません。自分はテフィリン(聖句箱)を着けていると思っていながら、実はテフィリンを着けていない、ということはあり得ません。あるいは、女性が安息日のろうそくを灯していると思っていながら実は灯していない、などということもあり得ません。

しかし意図については、自分を欺くということがあり得ます。自分はリシュマ(与えるために)で行っていると思っていても、実際にはすべてがロー・リシュマ(与えるためでない)であることがあり得るのです。

同様に、ここでは強制もあり得ません。なぜなら、人は自分の思考を強制して、自分が望むように考えさせることはできないからです。感覚や認識に属することでは、人には何の支配力もなく、自分の理性を強いて、実際に理解したり感じたりしているものを、別の仕方で理解させたり感じさせたりすることはできないのです。

これによって、前述の事柄を理解できます。すなわち、私たちにできることは、ただ行為の部分を行うことだけということです。これが「顕れたことは、我々とその子孫に属し、このトーラーのすべての言葉を行うためである」と呼ばれるものです。私たちは行為について命じられています。つまり、行為に関しては、たとえ強制によるものであっても、行うよう命じられているのです。

しかし、「隠された部分」と呼ばれる意図については、人には何の判断力も支配力もありません。それでは、この隠された部分もまた実行できるようになるには、私たちは何をすべきなのでしょうか。

この点で、人にできることはただ一つ、常に自己を検証することです。自分が本当にすべてを授与のために行っているのか、それとも授与のために行おうとすると身体がそれに反対するのかを、自ら確かめるのです。すると、自分がどれほどそこから遠いかを感じ、さらに授与のために意図できるようにするさまざまな方法を考えてみても、それが自分の助けにならないと見るなら――そのとき、自分の力では何もできないとわかります。

このことについて聖句は私たちに告げています。すなわち、「リシュマ」(授与のために)、すなわち「隠された部分」と呼ばれるものは、「私たちの神、クリエーターに属する」ということです。つまり、ただクリエーターだけが人を助けることができ、人にはその可能性が何もありません。それは人の手の内にあるものではなく、自然を超えたものだからです。

それゆえ聖句は「隠されたことは、私たちの神、クリエーターに属する」と言うのです。すなわち、これはクリエーターに属することであり、クリエーターがこの授与という力を授けなければならないのです。

これが、賢者たちが言ったことです(キドゥシン30a)。

「人の邪悪な性向は日々人に打ち勝ち、その人を殺そうとする。『悪しき者は義なる者を見張り、殺そうとする』とある通りである。そして、もしクリエーターが助けなければ、人はそれに打ち勝つことができない。『クリエーターは人をその手に委ねられない』とある通りである」。

「殺そうとする」とは何を意味するのでしょうか。それは、人にすべてを受け取るために行うようにさせる、ということです。これは「いのちのいのち」から切り離されることと呼ばれます。その結果、人は獣のままにとどまります。これが賢者たちの言う「悪しき者は生きている間も死者と呼ばれる」ということです。

したがって、「死」とは、意図が受け取るためにあり、分離と見なされる状態ということです。そして「デヴェクート(結合/内的交わり)」、すなわち与える力に値するにも、この力はただクリエーターだけが与えることができ、人の手によって獲得できるものではありません。

これが賢者たちによる「人の邪悪な性向は日々人に打ち勝ち、その人を殺そうとする。そして、もしクリエーターが助けなければ、人はそれに打ち勝つことができない。『クリエーターは人をその手に委ねられない』とある通りである」という言葉の意味です。

以上の説明によって、「隠されたことは、私たちの神、クリエーターに属し、顕されたことは、私たちと私たちの子孫に永遠に属する。それは、このトーラーのすべての言葉を行うためである」という聖句を理解することができます。すなわち、行為という面だけが私たちに属し、隠された部分はクリエーターに属するのです。

しかし、隠された部分についても、クリエーターがそれを私たちに与えてくださるように、私たちがなすべきことがあります。それは、「あらゆることには下からの目覚めが必要である」という原則によります。

「器なくして光なし」すなわち、「欠乏なくして満たしはない」という原則です。何かを入れるためには、まず空いた場所がなければなりません。空いた場所があってこそ、そこに望むものを入れることができます。しかし欠乏の場所、すなわち空いた場所がなければ、どうして何かを入れることができるのでしょうか。

したがって、まず私たちは「与えるための器」、すなわち「与えたいという欲求」が自分に欠けていることを見なければなりません。これが私たちの光です。以前の記事で説明したように、私たちの主たる報酬は、「与えたいという欲求」を獲得することです。それは「反射光(オアー・ホゼ)」と呼ばれます。『エツ・ハイム(生命の樹)』への序文(『パニム・メスビロート』付きの総序)にあるように、「私たちが望む報酬はすべて反射光である」と書かれているとおりです。参照してください。

したがって、もし「与えたいという欲求」が「光」と呼ばれるなら、自分に与える力がないと見る欠乏は「器」と呼ばれます。そして、器が自分に欠けていると感じることは、「与える力」と呼ばれる力がないために、自分が何を失っているかを理解する、ということです。したがって、人の感じ方の度合いに応じて、その欠乏がその人の中に刻まれます。これが「器」や「空いた場所」と呼ばれるものであり、与える力が欠けているその場所に、満たしを入れることができるのです。それこそが私たちの光と呼ばれるものです。

しかし、この器を受け取るためには、大いなる努力と苦労が必要なことを知らねばなりません。なぜなら、私たちには「欠乏」と呼ばれるケリム(クリの複数形)がすでにあり、それらを満たしたいと望んでいるからです。それらは「自己愛の器」と呼ばれ、そこに満たしを受け取りたいと望んでいます。

これらのケリムは非常に重要です。なぜなら、これらのケリムはクリエーターから来たものであり、「無から生み出されたもの」だからです。なぜなら、クリエーターが被造物に善を与えたいと望まれたからです。すなわち、満たしを与えたいと望まれたのです。しかし、満たしを入れる場所がなければ、どのようにして与えることができるでしょうか。それゆえ、これらのケリムを無から生み出し、そこに善と喜びを与えるように据えられたのです。したがって、これこそがクリエーターが創られた本来のクリです。

しかし、この「受け取りたい欲求」と呼ばれるクリは、「形態の同等性」、すなわち「クリエーターとのデヴェクート(結合/内的交わり)」を望んだために、そのままの受け取りのクリでは上からの豊かさ(シェーファ)を受け取れなくなりました。ゆえにいま、新たな受け取りのクリが必要となりました。それは前のクリの上にまとわれます。この二つによって、すなわち「与えたいという欲求」が「受け取りたい欲求」をまとうことによってのみ、そのクリは受け取るにふさわしくなります。

以上から分かるのは、以前のクリである「受け取りたい欲求」と呼ばれるものは、エマネーター(発する者/クリエーター)から来たものです。下の者にはその受け取りの欲求に関して何も関与しておらず、すべては発する者から来たのです。同様に、第二のクリである「与えたい欲求」と呼ばれるものもまた、ただ発する者から来るのであり、下の者は第一のクリである「受け取りたい欲求」と同様に、これに何も付け加えることはできません。

ただし、次の点に違いがあります。与えるためのクリについては、まず下の者からの要求がなければなりません。すなわち、人がクリエーターに願い求め、新しいクリを与えてくださるよう求めなければならないのです。これに対して、第一のクリは、下位の者からのいかなる目覚めもなしに与えられたのです。