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 (『ゾーハルの書』の注釈書「スラム(梯子)」の完成および出版を記念して語られたもの)

ゾハール完成に際しての講和

 (『ゾーハルの書』の注釈書「スラム(梯子)」の完成および出版を記念して語られたもの)

知られているように、トーラーとミツヴォット(戒律)における務めに意図された最終目的は、至高なる御名(クリエーター)にデヴェクート(内的交わり)することです。これは、聖句に「クリエーターにデヴェクートせよ」とある通りです。ここで理解すべきは、この「クリエーター(創造主)へのデヴェクート」が何を意味するのか、ということです。なぜなら、思考はいかなるかたちにおいてもクリエーターを捉えることができないからです。

実際、この問いについては、私に先立ってすでにハザル(賢者たち)が扱っています。「クリエーターにデヴェクートせよ」という聖句に対して、「いかにしてクリエーターにデヴェクートできようか。クリエーターは焼き尽くす火であるのに」と問いを立てたのです。

そして賢者たちは答えました。「クリエーターの資質(徳)にデヴェクートせよ。クリエーターが憐れみ深いように、汝も憐れみ深くあれ。クリエーターが慈しみ深いように、汝も慈しみ深くあれ」と。

しかし、一見して疑問が残ります。どうして賢者たちは、聖句のそのままの意味から外れてしまったのでしょうか。そこには、明確に「クリエーターにデヴェクートせよ」と書かれているのです。もし意味が「クリエーターの資質にデヴェクートせよ」ということであれば、「クリエーターの道(あり方)にデヴェクートせよ」と書かれるべきなのに、なぜ「クリエーターにデヴェクートせよ」と記されているのでしょうか。

その答えはこうです。物質的な次元には空間が占められるため、私たちはデヴェクートを「場所の近さ」として理解し、分離を「場所の遠さ」として理解します。しかしスピリチュアリティには空間がまったく占められないため、デヴェクートも分離も場所の近さや遠さという観点から理解されません。

そうではなく、二つのスピリチュアル的なものに「形態の同等性」があるときを「デヴェクート」とし、逆に「形態の相違」があるときを「分離」として理解します。

たとえば、斧が物理的なものを叩き割って二つに分け、その二つを引き離すように、スピリチュアルな次元においては「形態の相違」が二つに分け、引き離します。

形態の相違が小さければ、隔たりは少ないとされます。逆に、相違が大きければ、隔たりは大きいとされます。そして、もし形態が真逆であるならば、それは末端から末端ほどの隔たりがあるとされるのです。

たとえば、二人の人が互いに憎しみ合っているならば、その二人は東と西ほどに隔たっているとされます。逆に、互いに愛し合っているならば、一つの体のように結びついているとされます。ここで問題とされるのは、場所的な近さや遠さではなく、「形態に同等性があるか」か「形態が相違しているか」なのです。

これは、人々が互いに愛し合っていれば、そのあいだに形態の同等性があるからです。仲間が愛するものを自分も愛し、仲間が憎むものを自分も憎むとき、その人たちは互いに結びつき、愛し合います。

しかし、その人たちに何らかの形態の相違があるならば、すなわち、一人が愛するものを別の者が憎むならば、その相違の分だけ憎しみ合い、分離し、遠ざかります。さらに、もし完全に逆で、一人が愛するものすべてを別の者が憎むならば、それは東と西ほどに隔たっているとされます。

このことから、スピリチュアリティにおける形態の相違は、物質世界の斧のように分離させる働きがあるとわかります。スピリチュアリティにおける隔たりや分離の度合いは、その形態の相違の度合いによって決まるのです。そして、デヴェクートの度合いもまた、形態の同等性の度合いによって決まります。

これによって、賢者たちが「クリエーターにデヴェクートせよ」という聖句を、「クリエーターの資質にデヴェクートせよ」と解釈した正しさが理解できます。つまり、「クリエーターが憐れみ深いように、汝も憐れみ深くあれ。クリエーターが慈しみ深いように、汝も慈しみ深くあれ」としたことの正しさです。

賢者たちは聖句を文字通りの意味から外したのではなく、文字通り究極的に解釈したのです。なぜなら、スピリチュアル的なデヴェクートは、形態の同等性によってしか表せないからです。したがって、私たちは自らの形態をクリエーターの資質の形態と同等にするとき、クリエーターにデヴェクートするのです。

賢者が言った「クリエーターが憐れみ深いように」という言葉の意味はこうです ――すなわち、クリエーターはいかなる行為においても授与を行い、他者に益することだけを行い、自分自身のためには何も行わないということです。なぜなら、クリエーターは完全であり、満たすべき欠乏がないため、何かを受け取る必要がありませんし、受け取らせてくれる相手も存在しません。同様に、あなたも自分がすることすべてを他者に授与し、他者に益することのために行わなければなりません。このとき、あなたの形態がクリエーターの性質の形態と一致します。これこそがデヴェクート(内的交わり)なのです。

この「形態の同等性」には、「知(モハー)」と「心(レヴ)」の2つの側面があります。

「クリエーターに喜びをもたらすため」に トーラーとミツヴォット(律法と戒律)に従事することは、「知の側面」における形態の同等性になります。すなわち、クリエーターがご自身について―― 「自分は存在しているか」、「被造物を顧みているか」――といった疑問をいっさい考えられないように、形態の同等性を求める者もまた、これらのことを考えてはなりません。なぜなら、クリエーターにはそのような思考がないことが明白であるため、もし人がそのように思うなら、これほど大きな形態の不一致はないからです。

したがって、そのように思う者は確実にクリエーターから分離しているため、決して形態の同等性に至ることができません。

これこそが、賢者たちの言った「あなたのすべての行いをクリエーターのためにせよ」という教えの意味になります。クリエータのためとは、クリエーターとのデヴェクートのためということです。この目的――クリエーターとのデヴェクート―に至らないことは、いかなることもしてはなりません。つまり、あなたが行うことすべてを他者に授与し、他者に益することのために行わなければならない、ということです。

このようにして、あなたはクリーターとの形態の同等性に至ることになります。すなわち、クリエーターが行うことがすべて授与であり、他者に益するために行うように、あなたもまた、あなたが行うことすべてをただ授与すること、他者に益するために行うようになるのです。これこそが完全なデヴェクートです。

しかしここで、こう問うかもしれません――「そうはいっても、人が自らの行為すべてを他者のために行うことなど、どうして可能なのか? 結局のところ、人は自分とその家族を養うために働かざるを得ないのではないか」。

答えはこうです。 人が生きるために、必要最低限の糧を得るための行為は、賞賛も非難もされるべきでもない――それは単に「必要性による行為」であり、自分のために行うこととは見なされない、ということです。

物事の核心を掘り下げて考える者なら、きっとこう思って途方に暮れるでしょう――人が完全な形態の同等性に至り、行うことすべてを他者に与えるためだけに行うようになるにはどうしたらよいのかと。なぜなら、人間という存在の本質は、自分のために受け取ることに他ならないからです。

人は本質上、他者のためにはほんのささいなことであっても行うことができません。他者に与えるときには、最終的に自分に十分な報酬が返ってくることを、どうしても期待してしまいます。しかも、その報酬が得られるかどうかが少しでも疑わしいと、間違いなくそれをしないようにします。そのため、どうすれば、すべてを他者に与えるためだけに行い、何事も自分のためには行わない、ということが可能になるのでしょうか?

確かに、私もこれはきわめて困難であると認めます。人には自分のために受け取るという自らの生まれつきの性質、被造物としての本質を変える力がありません。ましてや、自分の本質的な性質を完全に逆転させ、自分のためには何も受け取らず、すべてを与えるためだけに行うことなど、到底できるものではないのです。

しかし、このためにこそ、聖なる御方(クリエーター)は私たちにトーラーとミツヴォット(律法と戒律)を与え、それらを「クリエーターに喜びをもたらすために」行うように命じられました。

もしもトーラーとミツヴォットに勤(いそ)しむことが「リシュマ(その御名のために)」でなかったとしたら、すなわち、クリエーターに喜びをもたらすためでははなく、自分の利益のために行われるのだとしたら、この世には、人の本質的な性質を転換し得る手段がなくなってしまいます。

ここから、トーラーとミツヴォットを「リシュマ」で行うことの重大さが理解できるでしょう。なぜなら、もし人がトーラーとミツヴォットをクリエーターではなく、自分のためにと意図するならば、その者は天賦の「受け取りの欲求」という本質を逆転するどころか、むしろよりいっそう強めてしまうからです。私はこのことを『スラムの注釈書(第1巻)』の第30・31節で詳しく説明しましたので、ここで詳細は述べません。

では、クリエーターとのデヴェクート(内的交わり)を得た人は、どのような高みに達するのでしょうか? このことは、どの書物にも明確には記されておらず、極めてほのかに暗示されるにとどまっています。しかし、この記事の説明にあたり、必要な範囲で少しだけ明らかにしていきます。

例を用いて説明します。体とその器官は一体です。全体としての体は、個々の器官と思考や感情をたえず交換しています。たとえば、全体である体がある特定の器官に対し、「この器官は私を楽しませ、役立ってくれるはずだ」と考えると、その瞬間、その器官は全体の思考を知り、それに応じて思考どおりの喜びを与えます。

同様に、もしある器官が「いま自分は窮屈で居心地が悪い」と感じれば、全体である体はその器官の思考と感情を知り、より快適な場所となるよう器官の位置を動かします。

しかし、もしある器官が体から切り離されてしまえば、体と器官は二つの別個の存在(領域)となってしまいます。そうなってしまうと、全体としての体はもはや、その切り離された器官の必要を知ることはなく、その器官も体全体の思考を知って、それに仕えることも、体全体にとってのよいこともできなくなります。

そこに医者が来て、その器官をもとのように体につなぎ合わせれば、その器官は再び全身の意識、すなわち全体としての体の思考や必要を感じ取るようになります。そして体もまた、その器官の必要を感じ取るようになるのです。

このたとえから、クリエーターにデヴェクート(内的交わり)するという報酬を得た者がもつ価値を理解できます。すでに、私が(『ゾハールの書への序文』第9節、および『イドラー・ズータ』の注釈において)証明したとおり、魂とは、聖なる御方(クリエーター)の本質から流れ出る(発出する)光です。この光がクリエーターから分離してしまったのは、クリエーターが光を「受け取りの意志」の中に包んだからです。「被造物に喜びを与えたい」という創造の思想が、すべての魂の中に「喜びを受け取りたいという意志」を創り出したのです。

このように、「受け取りの意志」というクリエーターとは異なった形態によって、その光はクリエーターの本質から分離し、クリエーターから離された部分(断片)となってしまいました。これについては、ここでは詳しく述べませんので、前掲の出典箇所を参照してください。

このことから導かれるのは、どのような魂も、それが創造される前はクリエーターの本質の中に含まれていたということです。しかし創造されたその瞬間、すなわち魂の中に「喜びを受け取りたいという意志」という性質が刻み込まれたときに、魂はその形態においてクリエーターとは異なり、分離しました。なぜなら、クリエーターの本質はただ「授与すること」だけであり、「受け取ること」ではないからです。そのため、前述のとおり、スピリチュアルな世界における形態の相違は、物質世界における斧のように、分離を生じさせるものとなります。

したがって、魂は完全にたとえ話の「体から切り離された器官」と同じ状態です。分離される前は、器官も体全体も一つであり、互いに思考や感覚を共有していました。しかし、ひとたび器官が体から切り離されると、二つの権域(領域)が生まれ、もはや一方が他方の思考や必要を知ることはできません。ましてや、魂がこの世の体に包まれた後には、クリエーターの本質から分離する前のあらゆる結びつきが断たれ、両者は完全に別々の権域となってしまったのです。

ここから自ずと、再びクリエーターとのデヴェクート(内的交わり)を得た者にある偉大さ、クリエーターとの形態の同等性を得たという偉大さが明らかになります。それは、トーラーとミツヴォットの力によって、自らに刻まれた「受け取りの意志」(それこそがクリエーターの本質から分離させたもの)を「授与する意志」へと変え、行うことすべてを他者に与え、他者の利になることだけをして得られたものです。その状態は、一度体から切り離され、再び体につなぎ合わされた器官のようであり、全体としての体の思考を、分離される以前と同じように知るようになります。

同様に、魂もまた、クリエーターとの形態の同等性を獲得した後は、「受け取り意志」という形態の相違から生じた、かつての分離以前に知っていたように、再びクリエーターの思考を知るようになります。そのとき、「汝の父なる神を知れ」という聖句が実現されます。つまり、その人は完全なる知識、すなわち神的な知を得て、さらにトーラーの奥義(秘密)にあずかります。なぜなら、クリエーターの思考こそが、トーラーの秘密そのものだからです。

これが、ラビ・メイルの「トーラーをリシュマのために学ぶ者は、多くの報いを得て、トーラーの奥義(秘密)とその内的な味わいが明かされ、湧き続ける泉のようになる」という言葉の意味です。

つまり、前述したように、「トーラーをリシュマのために学ぶ」とは──自らの利益のためではなく、クリエーターに喜びをもたらすという意図でトーラーに従事することを意味しています。そのように学ぶ者には、クリエーターとのデヴェクートが約束されています。これは、形態の同等性に到達することを意味しています。すなわち、すべての行為を自分の利益ではなく、他者の利益のためだけにするということです。まさにクリエーター自身のように──すべての行為を他者に与え、善をもたらすためにするように。

このことによって、人はクリエーターに再びデヴェクートするようになります。すなわち、魂が創造される以前の状態に戻り、多くの報いを得て、トーラーの奥義(秘密)と味わいに値するようになります。なぜなら、クリエーターと再び結びつくときは、もう一度クリエーターの思考を知るようになるからです。それは、ちょうど体から切り離されていた肢が、再び体に結びつくようなものです。そして、クリエーターの思考とは、トーラーの奥義と味わいと呼ばれているものです。

このように、トーラーをリシュマのために学ぶ者は、トーラーの奥義と味わいが明かされるという報いを得ます。そして、クリエーターとの隔たりを作っていた壁が取り払われることで、その人は「湧き続ける泉」のようになるのです。なぜなら、再びクリエーターと一体となって、創造される前の状態に戻ったからです。

実のところ、トーラーはすべて──明かされた部分(ニグレー)も隠された部分(ニスター)も──クリエーターの思考であり、その二つにいかなる相違もありません。これは、川で溺れている人を救うために、その友が投げた縄のようなものです。もし溺れている人が、自分側の縄の端をつかめば、友はその人を引き上げて、川から救い出すことができます。


<以下AI翻訳ママ>

トーラーも同じです。トーラー全体は創造主の思考であり、それは人間を救い、クリッパー(殻)から引き出すために、創造主が人々に投げた縄のようなものです。その縄の端は、すべての人に届くように近くにあり、それが「顕れたトーラー(トーラー・ニグレー)」の秘密です。これには、特別な意図や思考を必要としません。さらには、たとえ人がミツヴァを行う際に誤った思いを抱いていたとしても、それでもその行為は創造主に受け入れられます。というのは、「人は常にトーラーとミツヴァをリシュマでなくとも行うべきである。なぜなら、リシュマでなく行ううちにリシュマに至るからである」と言われているからです。

したがって、トーラーとミツヴァは縄の端であり、世界の誰一人として、それをつかめない者はいません。
そして、もし人がそれをしっかりとつかむなら──すなわち、トーラーとミツヴァをリシュマのために行うこと、すなわち自分の利益のためでなく、創造主に喜びをもたらすために行うなら──そのときトーラーとミツヴァは彼を創造主との形態の同等性へと導きます。
それが、「彼に付着する(ウレダヴカ・ボ)」という秘密です。
そのとき、人は創造主のすべての思考を悟るようになります。これが「トーラーの奥義」と「トーラーの理由」と呼ばれるものです。すなわち、縄の残りの部分であり、完全な付着に至った後にのみ、その部分にあずかることができるのです。

そして、私たちが創造主の思考──すなわちトーラーの奥義と理由──を「縄」にたとえるのは、形態の同等性にも多くの段階があるからです。
したがって、縄の各部分にも多くの段階があり、それがすなわちトーラーの奥義を悟る諸段階です。人が創造主との形態の同等性において到達した段階の大きさに応じて、彼のトーラーの奥義の悟り──すなわち創造主の思考の知識の程度──もまた、同じように高まっていくのです。

(つづく……)