(『ゾーハルの書』の注釈書「スラム(梯子)」の完成および出版を記念して語られたもの)
ゾハール完成に際しての講和
(『ゾーハルの書』の注釈書「スラム(梯子)」の完成および出版を記念して語られたもの)
知られているように、トーラーとミツヴォット(戒律)における務めに意図された最終目的は、至高なる御名(クリエーター)にデヴェクート(内的交わり)することです。これは、聖句に「クリエーターにデヴェクートせよ」とある通りです。ここで理解すべきは、この「クリエーター(創造主)へのデヴェクート」が何を意味するのか、ということです。なぜなら、思考はいかなるかたちにおいてもクリエーターを捉えることができないからです。
実際、この問いについては、私に先立ってすでにハザル(賢者たち)が扱っています。「クリエーターにデヴェクートせよ」という聖句に対して、「いかにしてクリエーターにデヴェクートできようか。クリエーターは焼き尽くす火であるのに」と問いを立てたのです。
そして賢者たちは答えました。「クリエーターの資質(徳)にデヴェクートせよ。クリエーターが憐れみ深いように、汝も憐れみ深くあれ。クリエーターが慈しみ深いように、汝も慈しみ深くあれ」と。
しかし、一見して疑問が残ります。どうして賢者たちは、聖句のそのままの意味から外れてしまったのでしょうか。そこには、明確に「クリエーターにデヴェクートせよ」と書かれているのです。もし意味が「クリエーターの資質にデヴェクートせよ」ということであれば、「クリエーターの道(あり方)にデヴェクートせよ」と書かれるべきなのに、なぜ「クリエーターにデヴェクートせよ」と記されているのでしょうか。
その答えはこうです。物質的な次元には空間が占められるため、私たちはデヴェクートを「場所の近さ」として理解し、分離を「場所の遠さ」として理解します。しかしスピリチュアリティには空間がまったく占められないため、デヴェクートも分離も場所の近さや遠さという観点から理解されません。
そうではなく、二つのスピリチュアル的なものに「形態の同等性」があるときを「デヴェクート」とし、逆に「形態の相違」があるときを「分離」として理解します。
たとえば、斧が物理的なものを叩き割って二つに分け、その二つを引き離すように、スピリチュアルな次元においては「形態の相違」が二つに分け、引き離します。
形態の相違が小さければ、隔たりは少ないとされます。逆に、相違が大きければ、隔たりは大きいとされます。そして、もし形態が真逆であるならば、それは末端から末端ほどの隔たりがあるとされるのです。
たとえば、二人の人が互いに憎しみ合っているならば、その二人は東と西ほどに隔たっているとされます。逆に、互いに愛し合っているならば、一つの体のように結びついているとされます。ここで問題とされるのは、場所的な近さや遠さではなく、「形態に同等性があるか」か「形態が相違しているか」なのです。
これは、人々が互いに愛し合っていれば、そのあいだに形態の同等性があるからです。仲間が愛するものを自分も愛し、仲間が憎むものを自分も憎むとき、その人たちは互いに結びつき、愛し合います。
しかし、その人たちに何らかの形態の相違があるならば、すなわち、一人が愛するものを別の者が憎むならば、その相違の分だけ憎しみ合い、分離し、遠ざかります。さらに、もし完全に逆で、一人が愛するものすべてを別の者が憎むならば、それは東と西ほどに隔たっているとされます。
このことから、スピリチュアリティにおける形態の相違は、物質世界の斧のように分離させる働きがあるとわかります。スピリチュアリティにおける隔たりや分離の度合いは、その形態の相違の度合いによって決まるのです。そして、デヴェクートの度合いもまた、形態の同等性の度合いによって決まります。
これによって、賢者たちが「クリエーターにデヴェクートせよ」という聖句を、「クリエーターの資質にデヴェクートせよ」と解釈した正しさが理解できます。つまり、「クリエーターが憐れみ深いように、汝も憐れみ深くあれ。クリエーターが慈しみ深いように、汝も慈しみ深くあれ」としたことの正しさです。
賢者たちは聖句を文字通りの意味から外したのではなく、文字通り究極的に解釈したのです。なぜなら、スピリチュアル的なデヴェクートは、形態の同等性によってしか表せないからです。したがって、私たちは自らの形態をクリエーターの資質の形態と同等にするとき、クリエーターにデヴェクートするのです。
賢者が言った「クリエーターが憐れみ深いように」という言葉の意味はこうです ――すなわち、クリエーターはいかなる行為においても授与を行い、他者に益することだけを行い、自分自身のためには何も行わないということです。なぜなら、クリエーターは完全であり、満たすべき欠乏がないため、何かを受け取る必要がありませんし、受け取らせてくれる相手も存在しません。同様に、あなたも自分がすることすべてを他者に授与し、他者に益することのために行わなければなりません。このとき、あなたの形態がクリエーターの性質の形態と一致します。これこそがデヴェクート(内的交わり)なのです。
この「形態の同等性」には、「知(モハー)」と「心(レヴ)」の2つの側面があります。
「クリエーターに喜びをもたらすため」に トーラーとミツヴォット(律法と戒律)に従事することは、「知の側面」における形態の同等性になります。すなわち、クリエーターがご自身について―― 「自分は存在しているか」、「被造物を顧みているか」――といった疑問をいっさい考えられないように、形態の同等性を求める者もまた、これらのことを考えてはなりません。なぜなら、クリエーターにはそのような思考がないことが明白であるため、もし人がそのように思うなら、これほど大きな形態の不一致はないからです。
したがって、そのように思う者は確実にクリエーターから分離しているため、決して形態の同等性に至ることができません。
これこそが、賢者たちの言った「あなたのすべての行いをクリエーターのためにせよ」という教えの意味になります。クリエータのためとは、クリエーターとのデヴェクートのためということです。この目的――クリエーターとのデヴェクート―に至らないことは、いかなることもしてはなりません。つまり、あなたが行うことすべてを他者に授与し、他者に益することのために行わなければならない、ということです。
このようにして、あなたはクリーターとの形態の同等性に至ることになります。すなわち、クリエーターが行うことがすべて授与であり、他者に益するために行うように、あなたもまた、あなたが行うことすべてをただ授与すること、他者に益するために行うようになるのです。これこそが完全なデヴェクートです。
しかしここで、こう問うかもしれません――「そうはいっても、人が自らの行為すべてを他者のために行うことなど、どうして可能なのか? 結局のところ、人は自分とその家族を養うために働かざるを得ないのではないか」。
答えはこうです。 人が生きるために、必要最低限の糧を得るための行為は、賞賛も非難もされるべきでもない――それは単に「必要性による行為」であり、自分のために行うこととは見なされない、ということです。
物事の核心を掘り下げて考える者なら、きっとこう思って途方に暮れるでしょう――人が完全な形態の同等性に至り、行うことすべてを他者に与えるためだけに行うようになるにはどうしたらよいのかと。なぜなら、人間という存在の本質は、自分のために受け取ることに他ならないからです。
人は本質上、他者のためにはほんのささいなことであっても行うことができません。他者に与えるときには、最終的に自分に十分な報酬が返ってくることを、どうしても期待してしまいます。しかも、その報酬が得られるかどうかが少しでも疑わしいと、間違いなくそれをしないようにします。そのため、どうすれば、すべてを他者に与えるためだけに行い、何事も自分のためには行わない、ということが可能になるのでしょうか?
確かに、私もこれはきわめて困難であると認めます。人には自分のために受け取るという自らの生まれつきの性質、被造物としての本質を変える力がありません。ましてや、自分の本質的な性質を完全に逆転させ、自分のためには何も受け取らず、すべてを与えるためだけに行うことなど、到底できるものではないのです。
しかし、このためにこそ、聖なる御方(クリエーター)は私たちにトーラーとミツヴォット(律法と戒律)を与え、それらを「クリエーターに喜びをもたらすために」行うように命じられました。
もしもトーラーとミツヴォットに勤(いそ)しむことが「リシュマ(その御名のために)」でなかったとしたら、すなわち、クリエーターに喜びをもたらすためでははなく、自分の利益のために行われるのだとしたら、この世には、人の本質的な性質を転換し得る手段がなくなってしまいます。
ここから、トーラーとミツヴォットを「リシュマ」で行うことの重大さが理解できるでしょう。なぜなら、もし人がトーラーとミツヴォットをクリエーターではなく、自分のためにと意図するならば、その者は天賦の「受け取りの欲求」という本質を逆転するどころか、むしろよりいっそう強めてしまうからです。私はこのことを『スラムの注釈書(第1巻)』の第30・31節で詳しく説明しましたので、ここで詳細は述べません。
では、クリエーターとのデヴェクート(内的交わり)を得た人は、どのような高みに達するのでしょうか? このことは、どの書物にも明確には記されておらず、極めてほのかに暗示されるにとどまっています。しかし、この記事の説明にあたり、必要な範囲で少しだけ明らかにしていきます。
例を用いて説明します。体とその器官は一体です。全体としての体は、個々の器官と思考や感情をたえず交換しています。たとえば、全体である体がある特定の器官に対し、「この器官は私を楽しませ、役立ってくれるはずだ」と考えると、その瞬間、その器官は全体の思考を知り、それに応じて思考どおりの喜びを与えます。
同様に、もしある器官が「いま自分は窮屈で居心地が悪い」と感じれば、全体である体はその器官の思考と感情を知り、より快適な場所となるよう器官の位置を動かします。
しかし、もしある器官が体から切り離されてしまえば、体と器官は二つの別個の存在(領域)となってしまいます。そうなってしまうと、全体としての体はもはや、その切り離された器官の必要を知ることはなく、その器官も体全体の思考を知って、それに仕えることも、体全体にとってのよいこともできなくなります。
そこに医者が来て、その器官をもとのように体につなぎ合わせれば、その器官は再び全身の意識、すなわち全体としての体の思考や必要を感じ取るようになります。そして体もまた、その器官の必要を感じ取るようになるのです。
このたとえから、クリエーターにデヴェクート(内的交わり)するという報酬を得た者がもつ価値を理解できます。すでに、私が(『ゾハールの書への序文』第9節、および『イドラー・ズータ』の注釈において)証明したとおり、魂とは、聖なる御方(クリエーター)の本質から流れ出る(発出する)光です。この光がクリエーターから分離してしまったのは、クリエーターが光を「受け取りの意志」の中に包んだからです。「被造物に喜びを与えたい」という創造の思想が、すべての魂の中に「喜びを受け取りたいという意志」を創り出したのです。
このように、「受け取りの意志」というクリエーターとは異なった形態によって、その光はクリエーターの本質から分離し、クリエーターから離された部分(断片)となってしまいました。これについては、ここでは詳しく述べませんので、前掲の出典箇所を参照してください。
このことから導かれるのは、どのような魂も、それが創造される前はクリエーターの本質の中に含まれていたということです。しかし創造されたその瞬間、すなわち魂の中に「喜びを受け取りたいという意志」という性質が刻み込まれたときに、魂はその形態においてクリエーターとは異なり、分離しました。なぜなら、クリエーターの本質はただ「授与すること」だけであり、「受け取ること」ではないからです。そのため、前述のとおり、スピリチュアルな世界における形態の相違は、物質世界における斧のように、分離を生じさせるものとなります。
したがって、魂は完全にたとえ話の「体から切り離された器官」と同じ状態です。分離される前は、器官も体全体も一つであり、互いに思考や感覚を共有していました。しかし、ひとたび器官が体から切り離されると、二つの権域(領域)が生まれ、もはや一方が他方の思考や必要を知ることはできません。ましてや、魂がこの世の体に包まれた後には、クリエーターの本質から分離する前のあらゆる結びつきが断たれ、両者は完全に別々の権域となってしまったのです。
ここから自ずと、再びクリエーターとのデヴェクート(内的交わり)を得た者にある偉大さ、クリエーターとの形態の同等性を得たという偉大さが明らかになります。それは、トーラーとミツヴォットの力によって、自らに刻まれた「受け取りの意志」(それこそがクリエーターの本質から分離させたもの)を「授与する意志」へと変え、行うことすべてを他者に与え、他者の利になることだけをして得られたものです。その状態は、一度体から切り離され、再び体につなぎ合わされた器官のようであり、全体としての体の思考を、分離される以前と同じように知るようになります。
同様に、魂もまた、クリエーターとの形態の同等性を獲得した後は、「受け取り意志」という形態の相違から生じた、かつての分離以前に知っていたように、再びクリエーターの思考を知るようになります。そのとき、「汝の父なる神を知れ」という聖句が実現されます。つまり、その人は完全なる知識、すなわち神的な知を得て、さらにトーラーの奥義(秘密)にあずかります。なぜなら、クリエーターの思考こそが、トーラーの秘密そのものだからです。
これが、ラビ・メイルの「トーラーをリシュマのために学ぶ者は、多くの報いを得て、トーラーの奥義(秘密)とその内的な味わいが明かされ、湧き続ける泉のようになる」という言葉の意味です。
つまり、前述したように、「トーラーをリシュマのために学ぶ」とは──自らの利益のためではなく、クリエーターに喜びをもたらすという意図でトーラーに従事することを意味しています。そのように学ぶ者には、クリエーターとのデヴェクートが約束されています。これは、形態の同等性に到達することを意味しています。すなわち、すべての行為を自分の利益ではなく、他者の利益のためだけにするということです。まさにクリエーター自身のように──すべての行為を他者に与え、善をもたらすためにするように。
このことによって、人はクリエーターに再びデヴェクートするようになります。すなわち、魂が創造される以前の状態に戻り、多くの報いを得て、トーラーの奥義(秘密)と味わいに値するようになります。なぜなら、クリエーターと再び結びつくときは、もう一度クリエーターの思考を知るようになるからです。それは、ちょうど体から切り離されていた手足が、再び体に結びつくようなものです。そして、クリエーターの思考とは、トーラーの奥義と味わいと呼ばれているものです。
このように、トーラーをリシュマのために学ぶ者は、トーラーの奥義と味わいが明かされるという報いを得ます。そして、クリエーターとの隔たりを作っていた壁が取り払われることで、その人は「湧き続ける泉」のようになるのです。なぜなら、再びクリエーターと一体となって、創造される前の状態に戻ったからです。
実のところ、トーラーはすべて──明かされた部分(ニグレー)も隠された部分(ニスター)も──クリエーターの思考であり、その二つにいかなる相違もありません。これは、川で溺れている人を救うために、その友が投げた縄のようなものです。もし溺れている人が、自分側の縄の端をつかめば、友はその人を引き上げて、川から救い出すことができます。
トーラーについても同じことが言えます。トーラーはそのすべてがクリエーターの思考であり、人を救い、クリポット※(殻)から引き上げるために投げられた縄のようなものです。そして、その縄の端は人々の近くにあり、皆に届くようになっています。これこそが「明かされたトーラー(トーラー・ニグレー)」の秘密です。これに特別な意図や思考は必要ありません。さらには、たとえ人がミツヴァを行う際に誤った意図をもっていたとしても、クリエーターはその行為を受け入れてくれます。それは、「人は常にトーラーとミツヴァをリシュマ(彼女のためではない)でなくとも行うべきである。なぜなら、そのように行っているうちにリシュマに至るからである」と言われているからです。
※クリパ(殻)の複数形
したがって、トーラーとミツヴォットは縄の端であり、この世界の誰もが、その端をつかむことができます。そして、もし人がそれをしっかりとつかむなら──すなわち、トーラーとミツヴァをリシュマのために行い、自分の利益のためでなく、クリエーターに喜びをもたらすために行うなら──そのときトーラーとミツヴォットは、その人をクリエーターとの形態の同等性へと導きます。それが、「クリエーターに密着する(ウレダヴカ・ボ)、すなわちデヴェクートする」という秘密です。
そのとき、人はクリエーターのすべての思考を悟るようになります。これが「トーラーの奥義」および「トーラーの味わい(理由)」と呼ばれるものです。すなわち、縄の端以外の部分であり、完全なデヴェクートに至った後にのみ、それにあずかることができます。
そして、私たちがクリエーターの思考──すなわちトーラーの奥義と理由──を「縄」にたとえるのは、クリエーターとの形態の同等性には多くの段階があるからです。縄にも多くの節があり、その節がすなわちトーラーの奥義を悟る諸段階となっているのです。人がクリエーターとの形態の同等性において到達した段階の大きさに応じて、トーラーの奥義の悟り──すなわちクリエーターの思考に関する知識の程度──もまた、同じように高まっていきます。
通常、それは5つの段階──フェシュ、ルアッフ、ネシャマー、ハヤー、イェヒダー──に分かれています。この各段階の中には5段階すべてが内包されていて、さらにそれぞれが5つに細分されているため、全体として少なくとも25の段階が存在します。
これらの段階は「オラモット(世界)」とも呼ばれます。これは、賢者たちが「クリエーターは、義なる者(ツァディク)の一人ひとりに310の世界を継がせるであろう」と述べた通りです。クリエーターへの到達(ハスガター)における各段階が「世界」と呼ばれる理由は、「オラム(世界)」という語に二つの意味があるからです。
第一に、同じ世界に入った者全員に、同じ感覚と感情が及ぶという意味です。すなわち、一人が見て、聞き、感じることを、その世界に入った全員が同様に見て、聞き、感じます。
第二に、「隠された」各世界に入る者は、他の世界にあるものを知ったり、把握したりすることはできないということです。
そして、この二つの意味は、スピリチュアル的な「到達(ハスガー)」においても見いだされます。
第一に、ある段階に到達した者は、その段階において、過去・未来を含めて、その段階に到達したすべての者が得たことを知り、把握します。同じ段階に到達した人々は、理解を同じくして結ばれているため、まるで一つの世界にいるようなものです。
第二に、ある段階にいる者たちは、他の段階に存在するものについては、知ることも把握することもできません。それはこの世の人々が、「真実の世界(オラム・ハエメット)」にあるものを知ることができないのと同様です。このため、各段階は「世界」と呼ばれているのです。
この理由から、スピリチュアル的な把握を得て、そこに到達した人々(バアレー・ハスガー)は書物を著し、自分たちの得た理解を、暗示や寓話、象徴の形で記すことができます。その書が語る段階に到達した人は皆、その内容を理解します。その人々には著者と共通の把握があるからです。しかし、その著者と完全に同等の段階に達していない者は、そこにある暗示を理解できません。ましてや、まだ何も把握していない、何も到達していない者たちは、何ひとつ理解できません。なぜなら、彼らには共通の把握がないからです。
すでに述べたように、完全なデヴェクート(内的交わり)と完全な到達は、全体として125の包括的段階に分かれています。したがって、メシアが来る前には、この125という全段階に到達することはできません。また、メシアの世代とそれ以外の世代には二つの違いがあります。
一つは、メシアの世代においてのみ、125の全段階に到達することが可能であり、それ以外の世代では不可能であること。
もう一つは、全世代を通して、到達しデヴェクートに至った「上昇した者(ベネー・アリヤー)」はごく少数であり、賢者たちが「千人が部屋に入っても、一人だけが師(導き手)として出る」と述べたように(コヘレト・ラッバー7:28)、千人が努力しても、そのうち一人だけがデヴェクートを果たし、把握に到達する、ということです。
しかし、メシアの世代には、すべての人がデヴェクートと把握に到達できるようになります。それは次のように語られている通りです。
「地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11:9)。
「彼らはもはや、互いに教え合って『主を知れ』とは言わない。小さき者も大いなる者も皆、わたしを知るからである」(エレミヤ31:33)。
ただし、ラシビ(ラビ・シモン・バー・ヨハイ)とその世代、すなわち『ゾーハルの書』の著者たちだけは例外でした。彼らは、メシアの時代に至る前であったにもかかわらず、125の段階すべてを完全に獲得することに成功したのです。ラシビとその弟子たちについて、「賢者は預言者にまさる」と言われているのはこのことです。
それゆえ、『ゾーハルの書』の中でしばしば「ラシビの世代のような世代は、メシア王の時代まで再び現れることはないだろう」と述べられているのです。このため、ラシビが著した偉大な著作(=『ゾーハルの書』)は、世界にこれほどまでに強い印象を与えました。なぜなら、その書に含まれるトーラーの奥義は125の段階の高さすべてを包含しているからです。
したがって『ゾハールの書』の中に、「この書は終わりの日、すなわちメシアの時代になって初めて明かされる」と語られているのは当然のことです。なぜなら、すでに述べたように、もし読み手の段階が著者と同じ高さに達していなければ、その人はそこにある暗示を理解できません。両者の間に共通の把握(ハスガー・ムシュテフェット)が存在しないからです。
そして、『ゾハールの書』の著者たちの段階は、125の最終段階の高さにまで達しているため、メシアの時代が来るまでは、彼らを理解することは不可能です。したがって、メシアの時代より前の世代では、『ゾハールの書』の著者たちと共通の把握を持てません。そのため、『ゾハールの書』はメシアの世代より前の時代に、明かされることができなかったのです。
ここから、私たちは確たる証拠を得ます。すなわち、私たちのこの世代はすでにメシアの時代に到達しているということです。なぜなら、見ての通り、これまでの『ゾハールの書』の注解書は、難解な箇所のうちせいぜい一割ほどしか解釈できていませんでした。しかも、そのわずかに解釈された部分ですら、その言葉は『ゾハールの書』そのものと同じくらい閉ざされていました。
ところが、私たちの世代には、「スラム(梯子)」という注釈が与えられました。この注釈は、『ゾハールの書』全体に対する完全な解説であり、どの箇所も曖昧なままではありません。しかも、その解説はシンプルで理性的な理解の上に築かれているため、標準的な探究者でも理解可能なのです。
したがって、『ゾハールの書』が私たちの世代で明らかにされたという事実それ自体が、私たちがすでにメシアの時代に入り、その始まりの段階にいるという明確な証拠です。このことについては、「地は主の知識で満たされる」(イザヤ11:9)と書かれています。
知っておくべきことは、スピリチュアル的な事柄は物質的な事柄とは異なり、与えることと受け取ることが同時には起こることがないということです。スピリチュアルな領域においては、「与える時」と「受け取る時」が別々に存在します。まず、クリエーターから受け取る者へと何かが与えられますが、この「与える」はまだ実際に受け取ったことを意味しません。それは単に、受け取るための機会を与えられただけです。
そして、人が自らを清め、聖別してふさわしい状態に至ったとき、初めてそのものを真に受け取れるようになります。したがって、「与えられた時」から「受け取る時」との間には、長い隔たりの期間が生じることもあるのです。
この観点からすると、「私たちの世代がすでに『地は主の知識で満たされる』という言葉の段階に到達した」というのも、授与についてのみ語られています。私たちは、まだ受け取りの段階には達しておらず、清められ、聖化され、学び、望まれるだけの努力を重ねる必要があります。そうして初めて、「受け取りの時」が訪れ、「地は主の知識で満たされる」という聖句が、私たちのうちに現実となって成就するのです。
よく知られているように、贖い(あがない:ゲウラー)と完全な把握に到達すること(スピリチュアル的完成:シュレムート・ハハスガー)は互いに結びついています。その証拠として、トーラーの奥義に引き寄せられる人は、必ずイスラエルの地にも引き寄せられます。したがって、「地は主の知識で満たされる」という約束は、終わりの日、すなわち贖いの時代においてのみ、与えられました。
ゆえに、完全な把握に到達すること(シュレムート・ハハスガー)においても、私たちはまだ「受け取りの時」には至っておらず、「授与の時」の段階にとどまっています。ただし、その「授与の時」によって、完全な把握に至るための機会を与えられています。これは、贖いにおいてもまったく同じです。私たちは、まだ「受け取って」いませんが、すでに「与えられている」のです。
事実、聖なる地(エレツ・イスラエル)は、すでにクリエーターによって諸国の支配から引き出され、私たちのもとに戻されました。しかし、まだその地を自らの支配もとには受け取ってはいません。なぜなら、すでに述べたように、まだ「受け取りの時」には達していないからです。つまり、クリエーターは「与えた」のですが、私たちはまだ「受け取っていない」のです。
実際、私たちにはまだ経済的独立がありません。経済的独立なしには、政治的独立もあり得ません。そして、それ以上に重要なのは、魂の贖いなしに肉体の贖いはあり得ないということです。
いまだ多くの人々が異国の文化のとりことなり、イスラエル本来の宗教や文化にまったく心を向けていません。そうである限り、その体もまた異なる力の支配下にあります。その意味で言えば、この地は今なお、実質的には諸国の支配下にあるということです。
その証拠に、誰ひとりとして、二千年の時を経て訪れた待望の「贖い」に対して、本来あるべきほどの感動や震えるような喜びを感じてはいません。それどころか、離散の地にいる者たちのほとんどは、ここに来て贖いにあずかろうとはせず、すでにイスラエルの地に住む者のですら、多くは「この贖いから逃れ、離散の国々に戻りたい」と願っているのが現状です。
したがって、クリエーターが諸国の手からこの地を取り戻し、私たちに与えたとはいえ、私たちはまだそれを受け取っておらず、それを楽しむこともできていません。しかし、クリエーターはこれを「授与」したことによって、私たちに贖いの機会を与えてくれました。すなわち、自らを清め、性別し、トーラーとミツヴォットをリシュマの意図で行うことを受け入れる機会です。そのとき、聖なる神殿(ベート・ハミクダーシュ)が再建されて、私たちはついにこの地を真に自らのものとして受け取り、贖いの喜びを心から感じるようになります。
しかし、そこに至るまでは、何も変わりません。この国の法も、経済も、クリエーターへの務め(アヴォーダ)も、諸国の支配下にあった時代と本質的に何も違いません。今、私たちにあるのは、ただ「贖いへの機会」なのです。
ここまで述べたことから導かれる結論は、この私たちの世代こそが、メシアの時代の世代であるということです。そのため、私たちは異国の手から聖なる地の贖いを得ることを許されたのです。また、『ゾーハルの書』の啓示をも得ることができました。それは、まさに「地は主を知る知識で満たされる」「彼らはもはや教え合うことはない。(中略)小さき者も大いなる者も皆、わたしを知るからである」という言葉が実現され始めたからです。
しかし、この聖なる地の贖いと『ゾーハルの書』の啓示には、聖なる御方(クリエーター)からの「授与(ネティーナー)」だけがあり、まだ何ひとつ私たち自身の手に「受け取った(カバラー)」ものはありません。この「授与」によって、聖なる御方に務め始め、トーラーとミツヴォットをリシュマで実践するための「機会(ヒズダムヌート)」が与えられたにすぎないのです。
そうすることで、私たちは大いなる成功を得ることになります。それは、メシアの世代に約束された成功のすべてであり、私たち以前の世代では知りえなかったものです。そのとき私たちは、「完全な到達(シレムート・ハハスガー)」と「完全な贖い(ハゲウーラ・ハシレマ)」の両方を受け取る「受け取りの時」を迎えることになります。
ここまでで、「クリエーターにデヴェクートする」とはどういう意味か、という問いに対し、賢者たちが「その資質に付着することである」と答えた正しさについて、十分に説明してきました。これが正しいのには、二つの理由があります。
1. スピリチュアルなデヴェクートは、場所の近さではなく、「形態の同等性」による。
2. 魂は本来、聖なる御方(クリエーター)の本質から離れたものではなく、ただクリエーターが魂に刻んだ「受け取りたいという欲求」ゆえに隔たりが生じただけ。したがって、この受け取りたいという意志が取り除かれれば、魂は自ずと、以前のように聖なる御方の本質とのデヴェクートへと戻る。
しかし、これは「理論として」はその通りでも、「実際のところ」では、まだ何ひとつ解決されていません。「クリエーターの資質にデヴェクートする」とは、被造物の本質に刻まれた受け取りたいという欲求を取り除き、「授与の欲求」(ラツォン・レハシピア)に至るということであり、これは本質と正反対のことだからです。
川に溺れている者は、ロープをしっかり握り続けねばならないと説明したように、「もう二度と愚かな状態に戻らない」として、トーラーとミツヴォットをリシュマで実践するまでは、ロープをしっかり握っているとは言えません。そうなると、再びこの問いへ戻ってしまいます。――「どこで、人が自らの心と力のすべてを尽くして、ただ『クリエーターの喜び(ナハト・ルアフ)』のためだけに努力する『燃料』を得ることができるのか?」
結局のところ、人は自分にとっての利益がなければ、一分(いちぶ)たりとも動くことはできません。燃料がなければ機械が動かないのと同じです。もし一切自分に利益がなく、クリエーターに喜びをもたらすことだけを目的とするのなら、そのための「燃料」がなくなってしまうのです。
この問いに対する答えはこうです。クリエーターの崇高さや高貴さ(ロムムート)を正しく把握した者にとっては、クリエーターへ「与えること」そのものが、受け取りへと転じるのです。ちょうど、タルムード(キドゥシン 7a)に、女性が尊い男に金を渡すと、それは「その男の価値ゆえに、女性が受け取った」とみなされ、婚約が成立する、とあるように。
クリエーターに対しても同様です。聖なる御方の崇高さを深く理解するなら、クリエーターに喜びをもたらすこと以上に重要な「受け取り」はありません。それは、人が心と魂と力のすべてを尽くしてクリエーターに務めるに十分な「燃料」となるのです。しかし明らかなのは、もしまだクリエーターの崇高さについて、正しい理解を深めていなければ、クリエーターに喜びを与えるという「与える行為」は、その人にとっての「受け取り」にはなりません。
したがって、人が本当に自分のためではなく、クリエーターのためだけを意図して行おうとする度に、すぐさま動こうとする力が失われます。まさに燃料のない機械のように。人は、自らに何らかの利益がない限り、足の一本すら動かすことができません。まして、トーラーが求めるほどの――魂と力のすべてを尽くすほどの――骨を折るほどの多大な努力であれば、受け取りの喜びなしには不可能です。
実際のところ、クリエーターの崇高さを把握し、与えることが受け取ることへ転じるほどの深い理解を得るのは、決して難しいことではありません。すべての人が、万物を創造し、生かし、始まりも終わりもない、というクリエーターの偉大さ、その無限の崇高さを知っているからです。
しかし、その難しさは、崇高さの価値が個人にではなく、環境に依存している点にあります。たとえば、たとえ多くの長所をもっていて、本人がそれを疑っていなくても、周囲の人がその価値を認めず、敬わなければ、心が絶えずくじかれて、自分の長所を誇れません。
逆に、たとえ何も長所がなくとも、周囲が徳のある人であるかのように敬えば、その人は誇りで満たされます。重要さや崇高さの価値は、完全に環境の手にゆだねられているからです。
周囲がクリエーターへの務めを軽んじ、その崇高さを正しく評価しないような環境にあると、一人では環境に打ち勝つことができません。そのため、その人自身もクリエーターの崇高さを得ることができず、結局は周囲と同じように、クリエーターへの務めをなおざりにしてしまいます。
クリエーターの崇高さを把握しようとする基盤がなければ、当然のこととして、自分のためではなく「自分の創り主に喜びを与えるため」に務めることはできません。骨を折るほどの努力へ立ち向かう燃料がないからです。これは、「労して見い出したものでなければ、信じるな」と言われている通りです。
したがって、己のために働くか、あるいはまったく働かないか、そのどちらかしか道はなくなります。なぜなら、「創り主に喜びを与える」ということが、受け取ること(=自然に湧き出る燃料)にならないからです。
ここから、「王の威光は多くの民の中にあり」という聖句が理解できます。なぜなら、崇高さの価値は、環境からもたらされるのであり、それには二つの条件があるからです。
1. 環境がどれほどその価値を評価しているか。
2. 環境の規模。
ここから、「王の威光は多くの民の中にあり」と言われているのです。
このことがとても難しいがゆえに、賢者たちは助言したのです。「自分のために師を作り、友を得よ」と。つまり、人は自らのために、重要で名の知られた人物を選び、その人を自分の師(Rav:ラブ)とするように、ということです。その師に導かれることで、「創り主に喜びを与えるために、トーラーとミツヴォットに取り組む」ことへと進んでいけるからです。
師を持つことには、崇高さ(ロムムート)を得るための助けとなる二つの側面があるからです。
一つ目は、師が重要な人物であるため、弟子(生徒)はその師の崇高さを基盤として、師に喜びを与えることができます。つまり、「与えること」が「受け取ること」へと転換し、自然な燃料となるので、弟子は与える行為をますます増やしていきます。そして、師に務めることに慣れてくれば、それを「創り主に向けたトーラーとミツヴォット──すなわりリシュマ──」の務めへと移していくことができます。習慣は第二の性質となるからです。
二つ目は、創り主との「形態の同等性(ハシュヴァアット・ツーラ)」は、永続的でなければ意味をなしません。これは、「奥義を知る方が、二度と愚行に戻らないとその人を証するまで」と言われている通りです。しかし、師との「形態の同等性」は、師がこの世にあり、時間の中に存在するため、たとえ一時的であっても役立ちます。その後で、元に戻ってしまったとしてもです。
したがって、弟子は師と形態が同等になるたびに、その瞬間だけは師にデヴェクートします。そして、そのデヴェクートの度合いに応じて、師の知識と思考を得るのです。これは、前述の説明「体から切り離された体の一部が、再び体にくっつく」というたとえの通りです。
ゆえに、弟子(生徒)は、師が認識している創り主の崇高さを借りることができ、それが「与えること」を「受け取ること」へと転換し、魂も財(全存在)も献げるのに十分な燃料となります。そのときには、心と魂と全存在をもって、トーラーとミツヴォットを「リシュマ」で行うことも可能になります。つまり、これこそが、創り主との永続的なデヴェクートへと至らせる特効薬なのです。
ここから、賢者たちの言葉が理解可能になります。「トーラーを学ぶことよりも、それ(師)に仕えることのほうが重要である。なぜなら、『エリシャの子、シャファト。彼はエリヤの手に水を注いだ』と書かれているからだ。ここに『学んだ』とは書かれておらず、『水を注いだ』と書かれている」(ブラホート 7b)。
<以下AI翻訳ママ>
表面上は奇妙に見えるかもしれない。どうして“単純な行為”が、**知恵や知識の学びよりも大いなるもの**であり得るのか、と。しかし、すでに述べた通り、弟子が自分の身体と財をもってラヴに仕え、ラヴに“喜び(ナハト・ルアフ)”をもたらそうとすることは、彼をラヴとのデヴェクート(付着)へと導く。すなわち**形態の同等性(ヒシュタヴット・ツーラ)**へ導くのである。
その結果、弟子はそのデヴェクートの度合いに応じて、ラヴの**知識と考え(思想)**を受け取る。「口から口へ(パー・エル・パー)」の秘密、つまり**ルアハ(霊)の付着**である。そのことによって、彼は聖なる御方の“崇高さ(ロムムート)”を把握する資格を得る。その把握の度合いに応じて、**“与えること”が“受け取ること”へと転じ**、心と魂と財をも投じて献身するに十分な**燃料**となる。こうして彼は、先に述べた通り、創造主とのデヴェクートを得るのである。
これに対して、ラヴのもとでの**トーラー学習**は、必然的に“自分自身の益のため”にならざるを得ず、デヴェクートへとは導かない。それは「口から耳へ(ミ・パー・レ・オーゼン)」と見なされる。つまり、**仕えること(シムーシュ)は弟子にラヴの“思想”を届けるが、学びはラヴの“言葉”しか届けない**のである。そして、シムーシュの価値は学びの価値を超える――ちょうど、ラヴの“思想”の重要性が、その“言葉”の重要性を超えるように。また、「口から口へ」が「口から耳へ」を超えるように。
ただし、これらはすべて、**ラヴに仕えることが、ラヴにナハト・ルアフをもたらすために行われている場合に限る。**
もしそのシムーシュが“自分の利益のため”であるなら、そのような仕え方はラヴとのデヴェクートには導かない。そうであるなら、**ラヴのもとでの学びのほうが、シムーシュよりも確かに重要である。**
さて、すでに述べたように、創造主のロムムート(崇高さ)を得るうえでは、**環境(社会・周囲)が創造主を正しく評価していない場合、個人は弱められ、創造主のロムムートの把握を妨げられる。**
このことは、当然ながらラヴについても同じように当てはまる。すなわち、**周囲がラヴを正しく評価しない場合、弟子はラヴのロムムートを適切に把握することができない。**
そのため、賢者たちは「**自分のためにラヴをつくり、友を買え**」と言ったのである。つまり、人は自分のために**新しい環境**をつくり、その環境がラヴのロムムートの把握を助けるようにしなければならない。
これは、**友愛(ハヴェルート)**によって、仲間たちがラヴを重要視することによって起こる。仲間同士の会話を通してラヴのロムムートが語られるとき、**それぞれがロムムートの感覚を受け取る。**
その結果、ラヴへの“与える行為”が“受け取り”へと転じ、**燃料**となる。その燃料の度合いに従って、人はトーラーとミツヴォットを“リシュマ”で行うことができるようになる。
このことについて、賢者たちはこう言った:「トーラーが獲得される四十八の徳のうち――**賢者へのシムーシュ(仕えること)と、友の綿密な仲立ち(ディクデク・ハヴェリーム)**」。
つまり、弟子はラヴに仕えるだけでなく、**仲間による働きかけ(ディクデク)が必要であり、仲間たちが弟子にラヴのロムムートを獲得させるために作用しなければならない**。
というのも、ロムムートの獲得は**完全に環境に依存する**からである。一人の人間だけでは、この点において何かを生み出すことはまったくできない、というのは明らかである。
さて、ロムムートの獲得には二つの条件が働く:
**1. 常に、環境からロムムートの評価を聞き、受け取ること。**
**2. 環境が“大きい(重要である)”こと。「大勢の民の中に王の威光がある」と言われる通りである。**
第一の条件を受け取るためには、**弟子が自分を仲間の中で“最も小さい者”と感じることが必須である。**
そうすれば、全員からロムムートの評価を受け取ることができる。というのも、**大きい者は、自分より小さい者から受け取ることはできず、当然ながら影響を受けることはない。**影響を受けるのは、常に“小さい者が大きい者から”である。
第二の条件に対しては、**弟子はすべての仲間の価値を高め、「まるで彼らが世代の偉大な者であるかのように」愛さねばならない。**
そうすることで、その環境は“大きな環境”として作用するようになる。
「建物の多さ(充実した内容)は、人数の多さより価値がある」と言われる通りである。
(おわり)