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カバラ・ライブラリー

モーセ

ラシュビ

ラムハル

Agra

一つを明かし、二つを隠す
※整えた和訳に差し替え済みです。 ※この記事は英訳にはヘブライ語の原文にはない訳註が多くあります。その訳註部分はそれとわかるように(英訳からの補足)としています。 「私は一つのテファフ(手のひら一つ分)を明かし、二つのテファヒーム(手のひら二つ分)を隠す」――これは、著名な賢者たちが深遠な事柄を明かそうとする際、通例として、その冒頭に用いられる言い回しです。先人たちは、無駄に多弁することを厳しく戒めていました。彼らは、「言葉にはスエラ※一つ分の価値があり、沈黙にはその二倍の価値がある」(『タルムード』メギラ18a、および『ゾハル序文』第18節)と教えていました。この意味は、計り知れないほどの価値ある言葉があったとしても、それを語らずに沈黙することは2倍の価値がある、ということです。 ※「スエラ」は古代の銀貨または重さの単位を表す。 これは、わざわざ不必要で中身のない言葉、ただ文体を華やかに見せるためだけの言葉を語る者たちへの警告です。こうした行いを先人たちは重大な禁忌(きんき)と見なしていました。したがって、先ほどの言い回しがあれほどまでに賢者たちの間で用いられてきた理由を、私たちも正しく理解するよう努めなければなりません。なお、これは先人たちの著作を注意深く見る者には明らかなことであり、これについては今後の記事でもさらに証明していきます。 トーラーの奥義にある三種類の隠蔽 実際、トーラーの奥義には三つの隠蔽の形があり、それぞれ異なる理由により隠されています。それらは以下のようにで呼ばれています。 不要なもの 不可能なもの 「クリエーターの奥義は、クリエーターを畏れる者たちにある」 この知恵の細部にわたり、この三種類の隠蔽の要素が存在しています。それを以下に説明していきます。 1.不要なもの これは、明かしたところで誰にも利益をもたらさない内容を指します。そのため、隠されたとしても特段の損失はありませんが、これを明かすとなると、理性の清らかさや注意深さという問題が関わってきます。つまり、「それをしたからといって、何の害があるのか?(特段の損失がないのなら、言っても問題ないだろう?)」という態度が問題とされます。 しかし、賢者たちの目には、この「それをしたからといって、何の害があるのか?」という考え方こそが、最も破壊的なものとされていました。なぜなら、世界を荒廃させる者たち、すなわち過去・現在・未来におけるすべての混乱の源には、この「何の害があるのか?」という姿勢の持ち主がいるからです。そうした者たちは、無用なことをして他者を煩わせ、時間を浪費させます。 そのため、真(まこと)の師は、教えを請うものが「不要なことを語らない」姿勢を保てる人物であることを確信するまで、弟子として受け入れることはありませんでした。 2. 不可能なもの これは、その事柄があまりに繊細かつスピリチュアル的であるため、言葉では本質を語りきれない場合を指します。言葉に置き換えようとすればむしろ誤解を招き、学ぶ者たちを誤った方向に導いてしまう危険があるため、極めて重い過ちとされます。こうした奥義を明かすには、「上層からの許可」が必要です。 上層からの許可について アリ(イツハク・ルリア)の著書『シャアル・マアマレー・ラシュビ(ラシュビの言葉の門)』(『ゾハール』ミシュパティーム、第4部100節、「ヨハイの息子は隠すことを知っていた」から始まる)では、次のように述べられています。 「知っておきなさい。義なる者の魂には二種類があることを。あるものは「取り囲む光」から来ており、あるものは「内なる光」から来ている。取り囲む光から来た魂は、深遠な事柄を『覆い隠しつつ語る』能力があり、その言葉は真にふさわしい者だけに届くようになっている。ラシュビ(ラビ・シモン・バー・ヨハイ)はこのような魂の持ち主であったため、『ゾハールの書』を著す許可が与えられた。しかし、ラシュビの師やそれ以前の偉大な賢者たちは、そのような語りの力がなかったため許可されず、書物として残すことは許されなかった」 (以下英語訳のみに存在する補足部分) なぜなら、彼らには、ラシュビのように伝える事柄を装う力がなかったためです。これが「ヨハイの息子は、自らの道を守る術を知っていた」と書かれている意味であり、ここから、ラシュビが記した『ゾハールの書』には非常に深い隠蔽が施されており、誰も理解できるものではないことがわかります。 つまり、トーラーの奥義を説明する力、すなわちこの知恵を明らかにする力とは、知識の深さやカバリストの偉大さではなく、上層から与えられたスピリチュアル的光の種類と強さによって決まるものであり、それがすなわち「上層からの許可」ということです。 (英訳からの補足) そのため、まだこの許可を授かっていない者は、この知恵における明確な解明を行ってはなりません。なぜなら、その者は、繊細な事柄をしかるべき言葉で装い、学ぶ者たちが誤らぬように語る力を持たないからです。 このため、『ゾハールの書』以前に体系的に解明されたカバラの文献はなく、あったとしても暗示や断片的なヒントにとどまっていました。実際、アリの登場以後、人々はそれ以前の書物を手放し、アリの書だけに集中するようになったのです。 (英訳からの補足) ここに、私が書物や著者たちから受け取ったことを付け加えておきます。それは、ラシュビとその弟子たち——『ゾハール』の編纂者たち——の時代から、アリの時代に至るまで、アリほどに『ゾハール』と『ティクニム(是正)』の言葉を理解した書き手は一人もいなかった、ということです。彼の時代以前に書かれた著作は、どれもこの知恵におけるほんの微かなヒントにすぎず、ラマク(モーシェ・コルデヴェロ)の書もその例外ではありません。 そして、ラシュビについて語られたのと同じ言葉が、アリ自身にも当てはまります。すなわち、彼に先立つ者には、この知恵の解釈を開示する上層からの許可が与えられず、アリにはそれが与えられた、ということです。これは、その人物が偉大であるかどうかはまったく関係がありません。むしろ、アリの先人たちの功績のほうが大きかった可能性さえあるのですが、それでも先人たちには許可が与えられなかったのです。 この理由から、先人たちはこの知恵の本質に関わる注釈を書くことを控え、互いに関連性のない、簡潔なヒントをほのめかすにとどまりました。 こうしてアリの書が世に現れて以来、カバラの知恵を学ぶすべての者は、ラマクやアリ以前の大いなる先人たちの書から手を引き、この知恵に携わる者たちは、その精神的活力をアリの著作にだけに結びつけるようになりました。つまり、この知恵において真正な注釈と見なされる本は、『ゾハールの書』と『ティクニム』、それに続くアリの著作だけなのです。   3.「クリエーターの奥義は、クリエーターを畏れる者たちにある」 これは、トーラーの奥義は、真にクリエーターを畏れ、心と魂をもってクリエーターの栄光を保ち、いかなる冒涜も犯さない者にのみ明らかにされることを意味します。 これは3つの種類のうち、最も厳格に隠蔽されています。なぜなら、この種の開示によって多くの者が誤った道に進んだからです。その者たちの中から生まれたのが、巧みに人の魂を誘う「呪術師」や「囁く者たち」、「擬似カバリスト」と呼ばれる者たちであり、あるいは、不相応な弟子たちの手を通じて歪められ、枯れた知恵を用いて、自分や他人の肉体的利益を得ようとする「神秘主義者たち」です。そして、この者たちが世界に甚大な混乱と誤解をもたらしてきました。 この隠蔽こそが、はじめから開示が制限されてきた根本的理由です。つまり、賢者たちが弟子を試す際に非常に厳格になった所以(ゆえん)です。「創世記の神秘は二人に教えてはならず」「戦車の神秘は一人にさえ教えてはならない」などの格言もすべてここに由来しています。 (英訳からの補足) このために、この知恵を授かった者はごくわずかであり、その者たちでさえ、あらゆる試練と試験を経て、この三種類の隠蔽については一切明かさないという厳粛な誓いを立てさせられました。(この件については、ラビ・モーシェ・ブルトリル著の『創造の書』序文を参照のこと)。 私はこの知恵の隠蔽を三つに分けましたが、これは真理の知恵そのものが三つに分かれているという意味ではありません。この点を誤解しないでください。そうではなく、この三つの側面が、この知恵の細部にわたり派生しているということです。なぜなら、この知恵を吟味する際に適用されるのは、この三つしかないからです。 では、なぜ多くの書物が存在するのか? しかし、ここで疑問が生じます。これほどまでに厳しい隠蔽があるにもかかわらず、なぜ何千ものカバラ文献が著されているのでしょうか。 その答えは、三つの隠蔽のうち、第一と第二(不要・不可能)は、常時禁止されているわけではなく、時代や状況、あるいは上層からの許可によって「必要・可能」となるからです。 「私は一つのテファフを明かし、二つテファハイムを隠す」とは、三つの隠蔽のうちの一つのみが解除され、他の二つは保持されたということを意味します。 (英訳からの補足) つまり、時として「不必要」に見える問題が、何らかの理由によって不必要ではなくなり、「必要」なものに変わることがあるということです。同様に、「不可能」と思われたものが、時代や状況によって「可能」になることもあります。これには二つの理由があります。一つは世代の発展によるものであり、もう一つは上層から許可が与えられることによります。それは、ラシュビ(ラビ・シモン・バー・ヨハイ)やアリ(イツハク・ルリア)に起こったように上層からの許可によるもので、これは彼らに先立つ者たちにも小規模ながらある程度起こりました。この知恵に関する正統な書物は、すべてこのような識別に基づいて生み出されたのです。 これが「私は一つのテファフ(手のひら一つ分)を明かし、二つのテファヒーム(手のひら二つ分)を覆う」と賢者たちが言う意味になります。つまり、三つの隠蔽のうちの一つのみが解除され、他の二つは保持されたということです。 (英訳からの補足) そして、この言い回しはまた、その開示の背後で何かが起こったことを示しています。つまり、「不必要」と見なされていたものが「必要」になったか、あるいは「上層からの許可」を得たかです。これが「私は一つのテファフ(手のひら一つ分)を明かす」の意味になります。 おわりに …
自由
※現在翻訳調整中で、随時アップデートしていきます。末尾に一部、AI翻訳ママの箇所があります。 自由 「石板に『刻まれていた(ハルート)』とあるが、『刻まれていた』ではなく、『自由(ヘルート)』と読むように。これは、彼らが死の天使から解放されたことを示している」 (出エジプト記 ラッバ 第41章) この言葉は解釈を要します。トーラーの授与と、人が死から解放されることがどのように関係しているのか、についての解釈です。また、もしトーラーを授かることによって、人が死の影響を受けない永遠の身体を得たのだとしたら、なぜ再びそれを失ったのでしょうか? 永遠なるものが、欠如したり喪失したりするのでしょうか? 自由意志 「死の天使からの自由」という崇高な概念を理解するためには、まず、全人類が通常理解している自由の概念を知っていなければなりません。 自由に対する一般的な見解は、生き物すべてに当てはまる自然法則です。ですから、捕獲された動物は、自由を奪われると死んでしまうことがあります。これは、クリエーターの摂理がいかなる被造物であれ、奴隷化することを是としないという確たる証拠です。人類が過去数百年にわたって個人の自由を獲得するために闘ってきたのには、十分な理由があったのです。 しかし、それにもかかわらず、「自由」という言葉に表される概念は不明瞭なままであり、この言葉の意味を掘り下げたところで、ほぼ何も見出せません。なぜなら、個人の自由を求める以前に、そもそも「個人」という存在そのものに、「自由」と呼ばれる特質が備わっているという前提が必要だからです。つまり、自らの意志によって選択し、行動できる力があるということです。 喜びと苦しみ しかし、私たちが個人の行動をよく観察してみると、それらはすべて不可避であり、本人の意思とは関係なく強制的に行われていることが分かります。これは、火にかけられた料理のようなもので、選択の余地なく煮込まれていくのです。なぜなら、クリエーターの摂理はすべての生命を「喜び」と「苦痛」という二つの鎖で縛っているからです。 生きとし生けるものには、苦痛を選ぶ自由も、快楽を拒む自由もありません。そして、人間が動物より優れているのは、遠い目標を見据えられる点にあります。つまり、未来の利益や後に訪れる喜びを選択するために、現在の苦痛をある程度受け入れるということです。 しかし実際には、これは単なる「損得計算」にすぎません。すなわち、将来得られる喜びや利益が、現在受けている苦しみや痛みにまさっており、その結果得られる差益(もうけ)があるかどうか、という計算です。つまり、予測される喜びから現在の苦しみや痛みを差し引いてもいくばくかが残るという、推論からの結論でしかありません。 つまり、最終的に得られるのは快楽だけです。そしてときには、得られた喜びが、先に受けた苦しみや痛みに見合わず、むしろ損したと感じることさえあります。まるで商人のような損得の世界です。 結局のところ、人間と動物との間に違いはありません。したがって、自由意志などというものは一切なく、ただ喜びに引き寄せられ、苦しみや痛みから逃げるという力が働いているにすぎません。摂理はこの二つの力によって、人々をあらゆる場所へと導いていくのです。そこには、人の意見など一切関係していません。 さらには、どんな喜びや利益かを決めることさえも、個人の自由意志によるものではなく、他者の意志によるものなのです。たとえば、座る、着る、話す、食べるとといったことも、自分がしたいようにはしてはいません。そうではなく、まわりの人々がそう望んでいるからそうするのです。すべては社会という他者の好みに従っており、自分の自由意志ではないの さらに、ほとんどの場合、人は自分の意志に反して事を行なっています。しかし、本当は精神的な負担なくもっと純粋に振る舞いたいと思っています。しかし、自分の行動はどれも、他者の価値観と慣習という鉄の鎖につながれ、手かせ足かせを課せられているかのようです。 そうであれば、自分の自由意志は一体どこにあるのでしょうか? 逆に、もし「自由意志など存在しない」と仮定するならば、つまり私たち一人ひとりが、外的な力によって行動を強いられる一種の機械のようなものであり、その力によって決まったの形で行動させられているとするならば、どうでしょうしょうか? それでは、すべての人が「クリエーターの摂理の牢獄」に囚われているということになってしまいます。クリエーターの摂理が、喜びと苦しみという二つの手綱によって、私たちをクリエーターの望む場所へと押したり引っ張ったりしているのです。 このような状態においては、「自己」というものはまったく存在しないことになります。つまり、自らの意志で立ち、自らの領域に立脚する「自由な人間」というものが存在しないのです。自分の行動の主人は自分ではなく、自分で「やりたいからやっている」のでもありません。むしろ、自分の知らないところで、強制的に働かされているにすぎないのです。もしそうであるならば、「賞罰」という考え方は完全に意味を失います。 これは、宗教を信じる人にとっても極めて奇妙なことです。なぜなら、彼らはクリエーターの摂理を信じており、この導きのすべてに善なる目的があると信頼し、依拠しているからです。しかし、自然を信奉する人々にとっては、さらに奇妙で不条理なことです。なぜなら、上記のように考えるならば、すべての人は盲目の自然という枷(かせ)に縛られており、その自然には知性も判断もないからです。 そうなれば、理性と知性を備え、被造物の中で最も優れた存在である私たち人間が、盲目的な自然の手の中で、弄ばれるおもちゃのような存在となってしまいます。そして、その自然が私たちをどこへ導くのかは、誰にも分からないのです。 因果律 このような重要なことを理解するために少しの時間をかけるのは、価値のあることです。それは、「自己」という存在がこの世界にどのようにして存在しているのか、つまり、各自が自らを独立した存在として、他の外的・未知の力に依存しない固有の実体として感じているのはなぜか、ということを理解するための時間です。 私たちの目の前に広がる現実の各構成要素には、全体的なつながりがあり、それは因果律の法則に基づいています。つまり、原因と結果(=因果)の連鎖によって物事は前へと進んでいます。そして、これは全体のみならず、個別の存在にも当てはまります。すなわち、鉱物、植物、動物、人間というこの世界の被造物の4種すべてが、「原因と結果」という因果の法則に従っているのです。 さらに言えば、この世界に存在する各被造物がその一瞬一瞬に示す姿やふるまいも、すべて過去の原因によって導き出されたものであり、他のどんな形にもなり得なかった、ということになります。これは、自然の秩序を純粋な科学的観点から、つまり偏見を混じえずに観察する者には明白なことです。そうは言っても、私たちはこの事柄をあらゆる側面および視点から、詳細に分析する必要があります。 四つの要因 知っておくべきことは、この世界に現れるものはすべて「無からの創造」ではなく、「有からの有」であると理解しなければならない、ということです。つまり、ある実体が以前の形態を脱ぎ捨て、新たな形態をまとうことによって生じるのです。 その際、つまりあるものがこの世界に現れ出る際には、ある要因が関与しています。その要因は全部で四つあり、その四つすべてが共に関わり合っています。この四つの要因は次の名称で呼ばれています。 A.  根源なるもの B.  根源それ自体の性質に基づく不変の因果関係 C. 外部の力に触れることで変化する内的因果関係 D. 外部から影響を及ぼす異質なものによる因果関係 以下、一つずつ噛み砕いていきます。 第一要因:根源なるもの、はじめのもの A)「根源なるもの」とは、その存在に関する「はじめのもの」のことです。なぜなら、「日の下に新しきものはなし(コヘレト1:9)」の通り、私たちの世界に現れ出るものは、何であっても無からの有ではなく、有からの有だからです。何らかの存在が、それ以前の形を脱ぎ捨て、まったく異なる新たな形態をまとって存在しています。 この以前の形を脱いだ状態が「根源なるもの」と定義される実体です。この実体には、やがて明らかになる力、すなわち現れ出ることを通して最終的に達する形の潜在的な力が内在しています。したがって、この根源こそが現れ出ているものの主要な原因(第一要因)とみなされます。 第二要因:根源それ自体の性質に基づく因果 B)これは、根源それ自体の性質に基づく因果のことで、不変のものです。例として、小麦の種が地中で腐敗し、そこから新たな小麦が生じる過程を挙げましょう。この腐敗した状態こそが「根源なるもの」と呼ばれています。つまり、小麦という存在が前の形を脱ぎ捨て、腐った小麦という新たな状態、形を持たない種子の状態になったのです。 この根源なるもの(種子)は、地中で腐敗したことで、別の形態――新たな複数の小麦の穂――をまとう準備ができたことになります。ここで重要なのは、この根源なるものが将来的に大麦やオーツ麦になることは決してなく、あくまでかつての自分自身、すなわち小麦の形に帰ることです。 もちろん、もとの小麦の種は1粒でしたが、それが蒔かれると10粒の小麦が実るかもしれません。また、味や見た目にも違いがあるかもしれませんが、それでも本質的な「小麦」という種(しゅ)としての姿は変わりません。 これが第二要因、すなわち根源なるものに内在する不変の因果関係です。 …
ゾハール完成に際しての講話
 (『ゾーハルの書』の注釈書「スラム(梯子)」の完成および出版を記念して語られたもの)
カバラの知恵の真髄
カバラの知恵の真髄 すでに多くの人々が論じてきたカバラの歴史を説明する前に、私はまず、この知恵そのものの本質を徹底的に明らかにしておく必要を感じます。実際、その本質を知っている人はほとんどいないと思います。当然ながら、そのもの自体を知らずして、その歴史を語ることはできません。 この知識は海よりも広く深いものですが、それでも私は、自分がこの分野で得た力と知識のすべてを注ぎ、あらゆる側面から照らし出していきます。そして、自分が導き出したものをできる限り明確に説明するよう努めていきます。どの魂もが真実のままに正しい結論に至れるよう、真実そのものを示し、この種の研究でしばしば起こり得る自己解釈による誤解の余地を残さないようにしたいのです。 この知恵が扱うもの これは、思慮ある者なら誰しもが、当然のごとく心に抱く問いです。私はこれに十分な答えを与えるため、正確かつ不変の定義を示したいと思います。カバラの知恵とは、根源の体系を示しているにほかなりません。すなわち、この知恵は、原因と結果の法則に基づいて定められた厳密で絶対的な秩序に従い、根源より連なり下るかのように展開していく一連の連鎖を示しているのです。そして、「この世に生きる被造物に、クリエーターの神性を顕す」という 一つの崇高な目的へと紡いでいきます。 「全体」と「個」 ここには「全体」と「個」の働きがあります。 全体とは、人類全体のことです。人類はやがて、その極限まで発達しなければなりません。これは、必然的かつ絶対的なことであり、以下に書かれているとおりです。「地は水が海を覆うように、主を知る知識で満たされる」(イザヤ書11:9)、「もはや人は互いに『主を知れ』と言って教えることはない。小さき者から大いなる者まで、私を知るからだ」(エレミヤ31:33)、「もはやあなたの師は隠されることなく、あなたの目はあなたの師を見るであろう」(イザヤ30:20)。 個とは、人類全体が極限に至り完成される前であっても、選ばれし個人が先にこの発達に至ることを意味します。つまり、各世代ごとに特定の人々が、クリエーターの神性の顕現に関して、一定の段階に到達するのです。その人たちこそが、預言者や「神の人」と呼ばれる人々です。賢者たちが「どの世代にもアブラハムやイサク、ヤコブのような者がいる」(創世記ラバ84)と語ったとおり、クリエーターの神性は、各世代において必ず顕現されるということです。 パルツフィム、セフィロト、諸世界にある多様性 ここで、一つの疑問が生じます。もしこの知恵がたった一つの特別な役割──「クリエーターの神性を顕現すること」──しか持たないのだとすれば、なぜカバラの書物には、パルツフィムやセフィロト、そしてそれらの多様で複雑な結びつきが、これほど数多く記されているのでしょうか。 答えはこうです。たとえば、自らを養い、しばらく生き延びて、種を存続させることだけを役割としていている小さな生物であっても、解剖学や生理学者が解明したように、その体の内部には無数の繊維や神経、筋が複雑に組み合わされています。さらに、人間の目ではまだ知られていない数え切れないほどの仕組みも存在します。 このことから、あの「崇高な目的」を形づくり、明らかにするためには、いかに多種多様な事柄や経路が結びつき、作用しなければならないかが理解できるでしょう。 二つの秩序──上から下へ、下から上へ この知恵の秩序は大きく二つに分けられます。この二つは等しく並行していて、まるで水の二滴のように同じです。ただ、違いが一つだけあります。第一の秩序は 上から下へ、すなわち最も高いところから最も低いこの世界へと流れ下っていきます。一方、第二の秩序は 下から上へ、すなわちこの世界から出発し、最も高いところへと上っていきます。しかもその上昇は、最初に上から下ったときに刻印された同じ道筋、同じ結びつきを、逆方向にたどるのです。 第一の秩序は、カバラの用語で「諸世界、パルツフィム、セフィロトの下降の秩序」と呼ばれ、持続的か一時的かを問わず、すべての現象がそこに含まれます。第二の秩序は「理解の獲得、あるいは預言や聖霊への到達(段階)」と呼ばれます。これを授けられた者は、刻印された法則の隅々まで正確に従い、同じ道筋を同じ方法で一歩ずつ歩み、獲得し到達していかなければなりません。 なぜなら、物質的なものと同じく、神性が一度に顕現されることはなく、長い期間をかけ、その人の浄化の度合いに応じて、徐々に明らかになっていくからです。そうして、上から下にあらかじめ整えられた各段階を発見していきます。それはまるで梯子の一段一段のように、一つずつ積み重ねられ、達成へと向かって配列されているため、「段階(ステップ)」と呼ばれています。 抽象的な名前について 多くの人は、カバラの知恵に出てくる用語や名称は、すべて抽象的な名前にすぎないと考えています。なぜならカバラが扱うのは、場所や時間を超越した神性や霊性であり、想像力さえも及ばないものだからです。そのため、人々はそこで語られるものは抽象的な名称に違いない、と決めつけてきました。あるいは、抽象名以上に崇高で高尚なものだと考え、もとより想像的要素がまったくないと結論づけてきました。 しかし実際、これは誤りであり、むしろ全く逆です。カバラでは、現実的で具体的なものに基づかない名称や呼称は一切用いません。すべてのカバリストに共通する鉄則はこうです――「私たちが獲得できないものを、名前や言葉で定義しない」。 ここで「獲得(Hasagah:ハサーガ)」という言葉の意味を理解しておく必要があります。これは「理解の最終段階」を意味し、「あなたの手が届く(Ki Tasig Yadcha)」という句に由来します。つまり、まるで手でつかんだかのように、完全に明快になるまでは、カバリストはそれを「獲得した」とは考えず、「理解」や「把握」といった他の言葉を用いるのです。 カバラにおける実在性 しかしながら、私たちの目の前に広がる物質的現実にしても同じです。私たちがその本質を把握したりイメージしたりできなくても、実際に存在するものがあります。たとえば「電気」や「磁気」といった「流体」と呼ばれるものです。 この名称についても、実在的でないと言えるでしょうか。私たちはその作用を完全に認識しており、その対象そのもの、すなわち電気そのものの本質を知覚できないことなど気にしていません。 この「電気」という名称は、自分の感覚で直接的に把握したかのように、現実的で身近なものとなっています。幼い子どもですら「パン」や「砂糖」などと同じように知っています。 もっと精緻に吟味したいというのなら、こうお伝えします。私たちはクリエーター(創造主)を知覚していませんが、実際にはこの世の被造物についても、その本質をまったく理解できていません。たとえそれが手で触れられる物質的なものであってもです。 したがって、目の前に広がる行為の世界(物質世界)において、私たちが仲間や親族についてもっている認識も、実は「作用の認識」にすぎません。それは、自らの感覚が彼らと接触し、感覚を共有するという関わり合いによって引き起こされ、生み出される作用の結果にすぎないのです。それは私たちを完全に満足させますが、だからといって、対象そのものの本質を把握しているわけではありません。 さらには、自分の本質についてでさえ、何も知覚していませんし、獲得もしていません。自分について知っていることはすべて、自分の本質から派生して広がる一連の作用にすぎないのです。 このことから、容易に結論が導き出されます。すなわち、カバラの書物に現れる名称や呼称もまた、現実のものであり、実際的なものであるということです。たとえその対象の本質を把握していなくても、それに携わる者はその究極的な完全性を認識し、この上ない充足を得ているからです。ただし、ここでもやはり、上層の光がそれを受け取る者と関わり、相互作用することによって生じる「作用の認識」でしかありません。 しかし、それで十分なのです。なぜなら、この原則があるからです――「創造の本質としてクリエーターの摂理によって計られ、派生したすべてのものは、完全に満ち足りている」。これは、ちょうど人が、自分の手のひらに第六の指を求めることはないのと同じです。なぜなら五本の指で完全に足りているからです。 カバラ書における物質的価値と身体的名称 理性ある者なら誰にでも理解できることですが、スピリチュアルなものを扱うにしても、ましてや神性について語る場合、私たちにはそれを考察するための言葉や文字がありません。なぜなら、私たちが持つ語彙のすべては、想像力と感覚から構成された文字の組み合わせにすぎないからです。したがって、想像や感覚が全く通用しない領域において、それらを使うことはできません。 たとえば、最も精妙な言葉である「上層の光」や「単純な光」という用語でさえ、太陽や蝋燭の光、あるいは疑問が解決されて精神的な安堵を感じた際の光の感覚などから借りられた比喩的な表現です。そのため、これらをスピリチュアル的・神的な道に用いることは、聞く者を偽り幻想を与えているにすぎません ましてや、この知恵の探究における慣例的な「論議」や「やり取り」のなかで、これらの言葉を用いて論理的な根拠や知性を示す必要がある場面ではなおさらです。この場合、賢者は読む者のために、極めて正確な定義を用いなければなりません。 もし、たった一つでも正確でない言葉を用いてしまえば、読む者を混乱させ、その前後に書かれている内容や、その言葉に結びつくすべてのことを理解不能にしてしまいます。これは、学問を極める者なら誰でも知っていることです。 したがって、こう疑問に思うはずです。どうしてカバラの賢者たちは虚偽の言葉を用いて、深遠な知恵における諸概念のつながりを説明できるのでしょうか。偽りの名前には定義がないことは周知の事実です。なぜなら、嘘には足がなく、立ち続けられないからです。 実にここでまず知っておくべきは、諸世界が互いに関わり合う仕組みである「根と枝の法則」です。 諸世界の関係における根と枝の法則 カバリストたちは、四つの世界を発見しました。すなわち、アツィルト、ベリアー、イェツィラー、アシヤーという四つの世界が、最も高次の第一世界であるアツィルトから、物質的で感覚として捉えられるこの世界、アシヤーに至るまで、あらゆる事象・要素において、その形が完全に同一であることを見出したのです。つまり、第一の世界に存在するすべての現実や現象は、第二の世界にも完全に存在し、そこから同様に続いて、五感で捉えられるこの世界に至ります 諸世界の間に違いはありません。ただし、各世界において現実の細部を構成する物質の「程度」が違います。最上位の第一世界では、諸要素を構成する物質が最も純粋で精妙です。第二世界の各要素は、第一世界を粗く、暗くしたものですが、それより下位の世界の要素よりも純粋で精妙です。 このようにして、私たちの目の前に広がる世界まで至ります。この世界の細部を構成する物質は、これまでの世界と比べて最も粗く、暗いものとなっています。しかし、現実の細部の形やそこで起こることは、各世界において質・量ともに変わらず、等しくもたらされます。 カバリストたちは、これを「印章とその刻印」にたとえました。印章に刻まれたものは、その形どおりに刻印され、細部に至るまで精巧に写し取られます。これと同じく、各世界には一つ上の世界が「刻印」され、上の世界にあるすべてのものが現れます。量的にも質的にも、上位の世界が綿密に写し取られるのです。 したがって、下位世界に存在する現実の要素や事象のうち、上位世界に存在しないものは一つもありません。それは、まるで水の二滴のように等しいのです。これらは「根と枝」と呼ばれます。つまり、下位世界の各要素は、それに対応する上位世界の型(=根)に対して「枝」とみなされるということです。なぜなら、下位世界の要素は、上位世界において刻印され、そこから生み出されているからです。 これが、賢者たちが述べた次の言葉の意図です。「下位の世界にあるすべての草には、その上位の世界に マザル(霊的な流れ・源泉 …
マタン・トーラー(トーラーの授与)
マタン・トーラー(トーラーの授与)    「汝自身の如く汝の友を愛せよ」(レビ記19:18) ラビ アキバは言う「これはトーラーにおける偉大な法則(注釈11)である」 この賢者たちの言葉には説明が必要である。Klal(共同体/法則)という単語は、その細部の総和を示しており、それらを組み立てることにより上層の共同体を形成する。つまりトーラーの偉大なKlalである「汝の友を汝の如く愛せよ」というミツヴァに関して話すとき、私達はトーラーの残りの612個のミツヴォット(戒律)とその全ての解釈が、たった一つのミツヴァ(ミツヴォットの単数形)「汝の友を汝の如く愛せよ」に挿入され含まれた細かい部分を全て合計したものと、完全に等しいことを理解しなければならない。 これは驚くべきことである。人と人の間のミツヴォットに関してならまだしも、その本質や広大な法則の大半を占めている人と神の間の全てのミツヴォットを、たった一つのミツヴァが含んでいるなんてありえるだろうか? 2)もしも私たちがこれらの言葉を両立させる方法を見つけるべく全力を尽くすのであれば、さらに顕著な次なる言葉がやってくる。それはHillel(Shabbat 31)の前に現れた改宗者に関するものであり、彼にこう言った。「私が片足で立っている間に、トーラーの全てを教えよ。」彼は答えた。「あなたが嫌なことを、あなたの友達にしてはいけない。」(「汝の友を汝の如く愛せよ」の翻訳)そしてその残りはその解説である。学びに行きなさい。 私たちの目の前には明確な法則がある。つまり612個の全てのミツヴォット、そしてトーラーに書かれている全てに関して、ミツヴァ「汝の友を汝の如く愛せよ」よりも優先されるものはないということ。それは、他者を愛するというミツヴァを適切に解釈し心に留めさせることが唯一の目的だからである。彼は明確にこう言っている。「残りはその解説である。学びに行きなさい。」この意味は、トーラーの残りの部分はそのひとつのミツヴァの解釈だということ。つまりもしもそれらがなければ、友達を自分自身のように愛するためのミツヴァは完成させることができない、という意味である。 3)問題の核心部分に入る前に、私達はミツヴァに従事しなければならない。なぜなら私達は「汝の友を汝の如く愛せよ」と命じられているからである。「汝の如く」とは「自分を愛するのと同じ程度に、ほんの少したりとも劣ることなく、友を愛せよ」ということ。言い換えると、イスラエルの国家において、全ての人の欲求を継続的かつ慎重に満たさなければならないということである。あなたが自分の欲求を満たそうと、常に警戒を怠らないでいるのと同じように。 これは完全に不可能なことである。日々の作業の間に、彼ら自身の必要性を満たせる人は多くはおらず、彼らに国家全体の望みを満たすために働けなどと言うことはできない。そしてトーラーが誇張した表現をしている、などと考えることもできない。それは、これらの言葉や法則が完全な正確さで与えられていて、そこに何かを付け足したり減らしたりしてはならないと警告されているからである。 4)これでもまだ不十分ならば、仲間を愛するというそのミツヴァの簡単な説明は、より苛酷なものであることを伝えよう。なぜなら私たちは自分より先に友達の必要性を考えなくてはならないからだ。ヘブライ人の奴隷に関する「あなたと共にいることを喜び」(申命記15:16)という言葉に関して、賢者たちはこう書いている。(Kidushin P20)「たったひとつの枕しかないとき、奴隷にそれを与えず自分がそこに横たわるのであれば、“あなたと共にいることを喜び”とはならない。なぜなら彼は枕に横たわり、その奴隷は床に横たわっているからである。もしも彼がそれを使わず、奴隷にもそれを与えなかったならば、それはソドム人のあり方である。」ここから、彼は自分の意思に反してそれを奴隷に与えなければならず、主人である彼は床に横たわるべきであることがわかる。 また仲間を愛する度合いに関する私たちの言葉の中にも同じ法則が見つかる。なぜならその文章でも、ヘブライ人の奴隷に関する「あなたと共にいることを喜び」という例と同様に、友達の必要性を満たすことと自分自身の必要性を満たすことを比較しているからである。このようにここでもまた、彼がたった一つの椅子しか持っておらず、友達は一つも持っていないとき、その法則とは、彼がそこに座り友達にそれを与えないならば、彼は自分を満たすように友達の必要性を満たしておらず、彼はミツヴァ「汝自身の如く汝の友を愛せよ」を破っている、というものである。 もしもそこに座らず、友達にもそれを与えないのであれば、それはソドム人のあり方と同じく邪悪な状態である。そのため彼は、自分が地面に座るか立つかして、友達を座らせなければならない。これは明らかに、人が持っていてかつ彼の友が持っていない全ての必要性に関する法則である。このミツヴァが多少なりとも実行可能なものかどうか、今すぐ見に行きなさい。 5)私たちは理解しなければならない。なぜトーラーがイスラエルの国家に特別に与えられ、世界中全ての民族に平等に与えられなかったのか。そこには、あってはならない民族主義が含まれているのか?もちろんそのようなことはない。実際賢者たちはこの問いを吟味した。そしてこれが、彼らが次の言葉(Avoda Zarah 2)で伝えようとしたことである。「神はそれを全ての国と言語にもたらした。そして彼らはそれを受け入れなかった。」 しかし彼らが不思議に思ったのは、他の国がそれを欲しなかったのならば、そのときなぜ我々は「あなたの神、主はあなたを選び」(申命記7:6)と書かれているように、「選ばれた人々」と呼ばれたのか?さらに基本的な質問として、クリエーターがそれらの野蛮な者達と交渉するために、主自ら、その両手に主の法則を持ってやって来たなんてことがありえるのだろうか?そんなことは聞いたこともなく、全く受け入れがたいことである。 6)しかし、我々に与えられたトーラーとミツヴォットの本質や、その求められた目的を、賢者たちから教わったレベルまで完全に理解するとき、つまりこの目の前にある偉大な創造の目的を理解するとき、我々は全てを知るだろう。なぜなら目的のない行為は存在しないというのが最初の構想だからである。最も低いレベルの人類や幼児を除いて、この法則に例外はない。そのため明らかにクリエーターは、その偉大さが想像を超えており、それが偉大な行為であろうとも、小さな行為であろうとも、目的もなしに行為を行うことはない。 賢者達はこれに関して、世界はトーラーとミツヴォットを遵守するためだけに創られた、つまり彼らが説明したように、主が被造物を生み出した時から、その目的はゴドリネスを人々に明かすことにある、と言っている。これは主のゴドリネスの開示が、素晴らしい恩恵として被造物に届き、さらにそれは望ましい大きさになるまで成長し続けているからである。 そしてそれにより、低き者は真の認識を持って上昇し、最終的な完成、「あなたの他に、神を目に見たことはない」(イザヤ書64:3)へと至るまで、主に向かい、主と付着するための戦車(chariot)となる。そしてその偉大さと完全さの栄光ゆえに、トーラーや預言書にも誇張した言葉は唯のひとつもない。賢者はこう言っている。「全ての預言者はメシアの日のためだけに預言をした。しかし来世においてもまた、あなたの他に神を見ることはなかった」(Berachot 34) この完全さは、トーラーや預言書の言葉、そして賢者たちの言葉の中で、Dvekut(付着)というひとつの言葉の中に表現されている。しかし大衆がこの言葉を使うとき、一般的にその内容のほとんど全てが失われてしまっている。しかしそれでもあなたが、ほんの少しでもこの言葉をじっと感じるのであれば、その驚くべき偉大さに圧倒されるであろう。それはあなたがクリエーターの偉大さと被造物の低さを思い描くからである。そのとき、あるものが別のものと共にいるというDvekutの価値を感じることができ、そして我々がこの言葉が全創造の目的を表現していると考えている理由を理解するであろう。 彼らがクリエーターとの付着によって報われるまで、その小さき被造物がトーラーとミツヴォットを遵守することによって絶えず上昇し発達していくこと、それが全創造の目的だということがわかる。 7)しかしここに、カバリスト達がやってきて問う。なぜ私たちは最初からこの付着という高い資質を持って創造されなかったのか?創造に関わるこの労苦、トーラーとミツヴォットで私たちを苦しませなければならない理由はどこにあるのか?彼らはこう答えた。「自分のものでないものを食べる者は、彼の顔を見ることを恐れる。」これは、友達の仕事を搾取し楽しむ者は、そうすることで人間の形を失うまでに、ますます恥ずかしくなるため、彼の顔を見ることを恐れる、という意味である。主の完全さから来ているものに欠陥はありえないため、主は私たちに、トーラーとミツヴォットにおける作業を通して、自らその崇高さを手に入れる機会を与えたのである。 これらの言葉は最も深遠なものであり、私は既に書籍Panim Me’irot uMasbirot to the Tree of LifeのBranch One、そしてThe Study of the Ten SefirotのInner Reflection, Part Oneで説明している。ここで私は全ての人が理解できるように簡潔に説明する。 8)これはある裕福な人が、市場から人を連れてきて、彼に食料を与え、金や銀や欲しいもの全てを毎日与えているようなものである。その人は毎日彼に、その前日よりもより多くのギフトを与えた。そしてその裕福な男はついに言った。「教えてください。あなたの望みは全て叶いましたか?」彼は答えた。「私の望みの全てが満たされたわけではありません。もしも私が自分の努力でこれらの貴重な品々の全てを手にしていたなら、それはとても素晴らしく嬉しいことだったでしょう。あなたがそれらを手にしたように。そして私はあなたからの施しを受けることはなかったでしょう。」するとその裕福な人は言いました。「だとしたら、あなたの望みを叶えることのできる人は決して存在しないでしょう。」 これは当然のことであり、彼はたくさんのプレゼントを受け取れば受け取るほど、大きな大きな喜びを体験するが、その一方で、そのお金持ちが彼に与える過剰なまでの善良さに恥ずかしさを感じずにはいられない。これは、授与者の同情や哀れみを通してギフトを受け取る者は、恥や苛立ちを感じるという自然法則が存在するからである。 ここから2番目の法則がやってくる。すなわち友達の欲求を完全に満たすことは誰にもできないということ。なぜなら、最終的に彼は冷静さという特質や形態を得ることはできず、それがあって初めて求めていた完全さへと至ることができるからである。 しかしこれは被造物にのみ関連することであり、クリエーターにとっては、そんなことは全くありえず、あってはならないことである。このため主は、我々が自分の力で自らの崇高さを生み出せるように、トーラーとミツヴォットという仕事を用意したのだ。なぜならその後で主からやってくる喜びや満足、つまり彼とのディビクット(付着)に含まれる全てが、全て自らの努力で手にした自己所有物になるからである。そうして我々は自らを所有者と感じる。これが無ければ、全体性の感覚は得られないのだ。 9)実際我々はこの自然法則の中心、その源を調べる必要がある。そして他人からの施しを受けるときに感じる恥ずかしさやもどかしさといった弱点を誰が生み出したのか?それは科学者達が熟知している法則からわかる。各枝はその根と同じ特質を持ち、その枝もまた根の全ての行為から欲し、求め、渇望し、そこから利益を得る。逆に根に存在しない全ての行為に対して、枝は自らを打ち消し、それらに耐えることもできず害を受ける。この法則はそれぞれの根と枝の間に存在し、破られることはない。 さてここで、この世界における全ての喜びと苦しみの原因を理解するために、目の前のひとつの扉を開けよう。クリエーターは被造物の根源であるため、我々は主の中に存在するもの、主から直接的にやってくるもの全てを、喜びや楽しさとして感じる。それは我々の特質が我々の根と似通っているからである。主の中に存在せず、彼から直接的に伸びてきているわけでもなく、創造自体に矛盾するもの全ては、我々の特質に反しており、我々がそれに耐えることは難しい。こうして我々は休息を好み、動くことを非常に嫌う。つまり我々は、休息が得られないのであれば一歩も動かないのだ。その原因は、我々の根が休息時以外でも不動であり、彼の中にどのような動きも存在しないからである。それ故これは、我々の特質に反し、我々にとって忌まわしいものとなる。 …
いまこそ行動の時
いまこそ行動のとき ラヴ・イェフダ・アシュラグ(バール・ハスラム) 長きにわたり、私は良心の呵責に苛まれてきました。それは、本物のカバラの知恵について、その基礎となる著作を編み、それを広く人々に伝える責務を自らに感じていたからです。それにより、人々が高次の世界に関する事柄の真の意味を捉え、正しく理解できるようにしたいと願ってきました。 印刷術が世に現れる以前のイスラエルでは、カバラの知恵に関する偽書(ぎしょ)は存在しませんでした。なぜなら、自分の言葉に責任の持てない著述家はほとんどいなかったからです。そこには、そのような人物が名を成すことはないという単純明白な理由がありました。 仮に、あつかましくもそのような書を著したところで、通常、写本を制作する写字生(しゃじせい)には、多大な報酬が必要でした。そのため、執筆の労力に対する採算が取れず、誰も写本を作ろうとしなかったのです。結果として、その類(たぐい)の書は最初から人々の目に触れる運命になかったのです。 当時の識者たちも、その類の書物を著すことに興味を示しませんでした。なぜなら、一般大衆がそのような知識を必要としていなかったからです。むしろ、「神の栄光とは、事を隠すことにある」という言葉から、知識は秘密の小部屋の奥深くに隠すべきものとされていました。トーラーの本質やクリエーター(創造主)への務めに関する事柄は、それを必要としない者やふさわしくない者から隠すよう命じられていました。そして、それを軽々しく公にすることは、その価値を損なう行為として禁じられていました。なぜなら、それこそが私たちに求められる「神の栄光」に他ならないからです。 しかし、印刷術の普及により、著者は写字生を必要としなくなり、書物の価格が下がると、自らの言葉に責任の持たない著述家たちが、欲望の赴くままに執筆を始めました。お金や名声のために出版する道が開かれたのです。その著述家たちは、自らの言葉が及ぼす影響を顧みることはなく、結果に目を向けることもありませんでした。 それ以降、前述のような類の書物が急増しました。しかも、その著者たちは、自らが扱う分野の知識について、しかるべき師から口伝を受けたわけではなく、古典的な書物からも学んでいませんでした。ただ、自分の空っぽな思考から勝手な理論をでっちあげ、高次の世界に結びつけることで、イスラエルの精神の本質やその尊き宝について語っているかのように装ったのです。その無知な者たちは慎重さに欠け、それを知る術もなく、混乱を招く誤った見解を世代に植え付けました。そして、その浅はかな欲望によって、自らが罪を犯しただけでなく、次世代をも誤りに導いてしまったのです。 近頃では、その者たちが発する悪臭はますますひどくなっています。ついには、カバラの知恵にまで手を伸ばし、その聖なる教えに爪を立てはじめたからです。この知恵は、いまに至るまで「千の鍵」で封じられており、一語たりとも真の意味を正確に理解できる者はいません。ましてや、語と語の間にあるスピリチュアルな結びつきを把握することなど到底不可能です。 なぜなら、いままでに著された本物のカバラの書物には、かすかなヒントしか記されておらず、それですら賢明な弟子が資格あるカバリストの賢者から口伝されて、ようやく理解できる程度のものだからです。ところがいまや、「そこにキポズが巣を作り、産み、孵し、その影に抱いた※」ように、多くの異端が群がり、この時代にあっては、徒党を組んで、見る者に吐き気を催させるような代物に「料理」してしまいました。 ※ イザヤ書34:15の比喩に基づく。異端者たちが、神聖な知恵の中に住みつき、自らの都合で繁殖し、それを自分の領分のように扱っている様子を表す。 中には、あたかも時代の指導者であるかのように振る舞い、自らを古(いにしえ)の書物の選別者であるかのように見せ、「この書物を学ぶべきだ」「この書物には誤りが多い」と語る者すらいます。これは、侮蔑(ぶべつ)と怒りを招く態度です。なぜなら、そうした判断は代々の偉大な指導者たちの中でも、ほんの一握りの者にしか許されていなかったにもかかわらず、いまでは無知な者たちが軽々しくそれを扱い、翻弄しているからです。 その結果、この類の事柄に関する大衆の理解は、著しく歪められてしまいました。加えて、社会全体に軽薄な風潮が蔓延し、誰もが「自分には一瞥するだけで、こうした高次の事柄を理解し批判する資格がある」と思い込むようになってしまいました。そして、まるで空を飛ぶ天使のごとく、イスラエルの精神とスピリチュアルの本質――その高度な知恵の海――を一瞬で飛び越え、自分本位な解釈で勝手な結論を導き出してしまうのです。 これこそが、私が自らの限界を超えて行動を起こすに至った理由です。私は決意しました。「今こそクリエーターのために行動する時である」と。今なお救うことのできるものを、何としても救うために。そこで私は、この主題に関わる真理の一端を明かし、それを人々の間に広めることを、自らの使命として引き受けたのです。