<- カバラ・ライブラリー
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※ 2026年8月30日更新

(ヘブライ語からのAI訳、一部翻訳済み)

『アルヴート(相互保証)』

(「マタン・トーラー(トーラーの授与)」の記事の続編)

「すべてのイスラエルは互いに保証人である」(サンヘドリン27b、シュヴオット39a)。

これが**アーヴート(相互保証)**ということであり、すべてのイスラエルが互いに保証人となった、ということである。

なぜなら、彼らにトーラーが与えられる前に、イスラエルの一人ひとりが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と書かれている戒めを、そのすべての程度において自らに受け入れることに同意するかどうかを問われたからである。これについては、「マタン・トーラー」の記事、第2項および第3項で説明されているので、そこで一語一句確認されたい。

すなわち、イスラエルの一人ひとりが、自らの国民の仲間一人ひとりのために配慮し、働き、そのすべての必要を満たすことを自らに引き受けるということである。それは、人間に、自分自身の必要を満たすために配慮することが本性として刻み込まれている程度に、決して劣るものではない。

そして、国民全体が満場一致でこれに同意し、「われらは行い、そして聞く」と言った後、イスラエルの一人ひとりは、国民の仲間の誰一人として何ものにも不足することがないよう、その保証人となった。その時、彼らはトーラーを受け取るにふさわしい者となったのであり、それ以外にはなかった。

なぜなら、この全般的な相互保証によって、国民の一人ひとりは、自らの身体の必要についての一切の心配から解放されるからである。そして、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めを、そのすべての程度において守ることができ、自分が持つすべてを、必要とする者に与えることができる。なぜなら、もはや自らの身体の存続について恐れることがないからである。というのも、彼は、自分の周囲に六十万人の忠実な愛する者たちがいて、自分のために配慮する準備を整えていることを知り、それを確信しているからである。これは「マタン・トーラー」の記事、第16項で説明されているので、そこで確認されたい。

この理由から、アブラハム、イサク、ヤコブの時代には、彼らはトーラーを受け取る準備がまったく整っていなかった。彼らがエジプトを出て、一つの完全な国民として独立するまで、それは不可能だったのである。なぜなら、その時になって初めて、一人ひとりが、いかなる心配も懸念もなく、自らのすべての必要が保証されるという状態が可能になったからである。

これに対して、彼らがまだエジプト人の間に混じっていた時には、事情が異なっていた。必然的に、彼らの必要のある一定の部分は、自己愛に満ちたこれら野蛮な異邦人の手に委ねられていたのである。

したがって、異邦人の手に委ねられていたその必要の部分は、イスラエルの一人ひとりにとって、まったく保証されていなかった。なぜなら、彼の仲間たちは、それらの不足を満たすことができなかったからである。それは彼らの手中にはなかったからである。そしてすでに説明したように、個人が、自分自身の心配事によって少しでも煩わされている限り、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めを実行し始めることさえ、まったくできないのである。

このことから明らかに分かるのは、トーラーの授与という出来事は、彼らがエジプトを出て、自ら独立した一つの国民となる時まで、必然的に延期されなければならなかったということである。すなわち、彼らのすべての必要が自らの手に委ねられ、他者に依存しなくなる時までである。その時、彼らは上述の相互保証を受け入れるにふさわしい状態となった。そしてその時、彼らにトーラーが与えられたのである。

このことから、トーラーを受け取った後であっても、もしイスラエルのうちの少数の者が裏切り、他者を顧みることなく、自己愛の汚れへと再び戻るならば、その少数の者たちの手に委ねられている必要の部分が、イスラエルの一人ひとりに、自らそれについて心配することを強いることになる。なぜなら、その少数の者たちは、彼に対して少しも慈悲を示さないからである。

したがって、それによって、すべてのイスラエルが「隣人愛」の戒めを実行することは妨げられるのである。前述のとおりである。

このように、くびきを投げ捨てる者たちは、トーラーを守る者たちが自己愛の汚れの中にとどまり続ける原因となる。なぜなら、彼らの助けなしには、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに従事し、隣人愛において完成することができないからである。前述のとおりである。

このことから明らかなように、すべてのイスラエルは互いに保証人である。それは、肯定的な側面からも、否定的な側面からもそうなのである。

肯定的な側面から言えば、すなわち、もし彼らが相互保証を守り、一人ひとりが仲間のあらゆる不足に配慮し、それを満たすならば、そのことによって、彼らはトーラーと戒めを完全に守ることができる。すなわち、「マタン・トーラー」の記事、第13項で述べられているように、自らの創造主に喜びを与えることができるのである。

また、否定的な側面から言えば、すなわち、国民の一部が相互保証を守ろうとせず、自己愛に沈み込んでいるならば、彼らは国民の残りの者たちを、その汚れと卑しさの中に沈んだままとどめ、前述のように、その汚れた状態から抜け出すためのいかなる出口も見いだせないようにするのである。

18) したがって、タナ(ミシュナの賢者)は、相互保証という事柄を、船に乗っていた二人のたとえによって説明した。一人が自分の座っている場所の下を掘り始め、船に穴を開けようとした。すると、もう一人が彼に言った。

「なぜ穴を掘っているのだ?」

彼は答えた。

「おまえに何の関係がある。私は自分の下を掘っているのであって、おまえの下を掘っているのではない。」

すると彼は言った。

「愚か者よ、われわれは二人とも、この船の中で一緒に滅びるのだ!」

以上。

これは、先に述べたことと同じである。なぜなら、くびきを投げ捨てる者たちは自己愛に沈み込んでいるため、その行為によって、トーラーを守る者たちが、トーラーと戒めを本来の正しいあり方で守り始めることさえ妨げる鉄の障壁を作り出すからである。すなわち、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と書かれている程度においてである。これは、前述のように、彼の祝福された御方とのデヴェクート(結合)に到達するための梯子なのである。

そして、このたとえの言葉がいかに正しいかが分かる。「愚か者よ、われわれは二人とも、この船の中で一緒に滅びるのだ!」と彼に言うのである。

19)

そして、ラビ・エラザル、ラシュビの息子は、相互保証についてさらに踏み込んで述べている。彼にとっては、すべてのイスラエルが互いに保証人であるというだけでは十分ではなく、全世界もまた相互保証の事柄に入るのである。

しかし、両者は対立しているわけではない。なぜなら、すべての者が、初めにトーラーの存在のためには一つの国民だけで十分であることを認めているからである。そしてこれは、世界の修正を始めるためだけである。全世界のすべての国々から、一度に始めることは不可能だったからである。

賢者たちが言ったように、聖なる方、彼に祝福あれは、トーラーを携えてすべての民族と言語のもとを巡ったが、彼らはそれを受け入れようとはしなかった。つまり、彼らは自己愛の汚れに鼻の上まで、すっかり沈み込んでいたのである。ある者たちは姦淫に、ある者たちは強奪に、ある者たちは殺人に、その他もろもろに沈んでいた。そのため、当時、彼らに対して、自己愛から離れることに同意するかどうかを話し合うことさえ、考える余地がなかったのである。

したがって、聖なる方、彼に祝福あれは、トーラーを受け取る準備のできた民族も言語も、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫以外には見いださなかった。彼らには先祖たちの功徳があったからである。そして賢者たちが言ったように、「父祖たちは、トーラーが与えられるより前に、すでにトーラー全体を実践していた」。

その意味は、彼らの魂の高尚さゆえに、彼らには、トーラーの実践的な梯子を前もって必要とすることなく、神のすべての道を、トーラーの霊性という観点から理解し、そこに到達する能力があったということである。トーラーの霊性は、彼とのデヴェクート(結合)から生じるものである。彼らには、前述の「マタン・トーラー」の記事、第16項で述べたように、トーラーに含まれる実践的な戒めを、そもそも実行する可能性がなかったからである。

疑いなく、われわれの聖なる父祖たちの身体的な浄化も、精神的な高尚さも、これらの子孫たち、そしてその子孫の子孫たちに非常に大きな影響を及ぼした。そして、この彼らの功徳が、その世代のために立ったのである。その世代では、国民の仲間の一人ひとりが、この高尚な務めを自らに引き受け、一人ひとりが明確に口にして、「われらは行い、そして聞く」と言った。

この理由によって、われわれは必然的に、すべての民族の中から選ばれた民となったのである。

したがって、必要とされる相互保証に入ったのは、イスラエルの国民だけであり、異邦の諸民族の子らはまったく入っていない。彼らはこの事柄に参加しなかったからである。そしてこれは明白である。なぜなら、これは現実そのものだからである。

では、ラビ・エラザルは、彼とどうして意見を異にすることができるのだろうか。

20)

しかし、世界の修正の完成は、全世界のすべての者を、彼への奉仕という秘密の中に入れることなしにはあり得ない。書かれているように、

「そして主は全地の王となられる。その日、主は唯一となり、その御名は唯一となる。」

とある。

聖句が「その日」と正確に述べており、それ以前ではないことに注意すべきである。

同様に、次のようないくつもの聖句がある。

「そして地は主を知る知識で満たされる」
「そしてすべての国々が彼のもとへ流れ来る」

などである。

しかし、イスラエルが全世界に対して担う役割は、われわれの聖なる父祖たちがイスラエルの国民に対して担った役割に似ている。

すなわち、われわれが成長し、浄化され、トーラーを受け取るにふさわしい者となるまで、われわれに父祖たちの功徳があったのと同じである。もし父祖たちが、トーラーが与えられる前にトーラー全体を実践していなかったなら、前述の第19項にあるとおり、彼らは他の諸民族よりも優れているとは、まったく言えなかったのである。

同様に、イスラエルの国民には、トーラーと戒めにリシュマのために従事することによって、自分たち自身と全世界の人々を準備し、彼らが隣人を愛するという、この高尚な務めを自らに引き受けるまで成長するようにすることが課せられている。

それは、創造の目的へと至る梯子であり、その創造の目的とは、彼とのデヴェクート(結合)である。前述のとおりである。

したがって、イスラエルの一人ひとりが、何らかの報酬を受け取るためでも、自己愛のためでもなく、自分の創造主に喜びを与えるために一つ一つの戒めを行うなら、その人は、それによって、全世界の人々全体の成長において、ある一定の程度を働かせることになる。

なぜなら、このことは一度に行われるのではなく、少しずつ、段階的な成長によって進むからである。そして、そのような程度にまでその数が大きく増え、ついには全世界の人々を、望まれる浄化へと決定的に動かすことができるようになる。

これが、賢者たちが比喩的に「義の側に秤を傾ける」と呼んだものである。

つまり、望まれる浄化の重さが測り終えられるということである。これは、秤の皿で物を量る人にたとえられる。秤の皿が傾くことが、その量られているものに望まれる重さが完全に満たされたことだからである。

21)

そして、これがラビ・エラザル・ベン・ラビ・シモンの言葉である。

「世界はその大部分に従って裁かれる……」

彼の意図は、イスラエルの国民が、世界をある一定の浄化へと準備する役割について述べているのである。それによって、世界の人々が、イスラエル自身がトーラーを受け取った時にそうであったのと同じ程度に、彼への奉仕を自らに引き受けるにふさわしい者となるのである。

これは、賢者たちの言葉では、彼らがすでに「大半の功徳を得た」と呼ばれる状態である。

つまり、彼らが自己愛という汚れた「罪の側」の皿を、義の側へと傾けるのである。

そして明らかなように、功徳の皿、すなわち隣人愛の本質についての高尚な理解が、汚れた罪の側の皿よりも大きくなり、上回るならば、彼らは決断し、同意することができる状態となり、イスラエルが言ったように、「われらは行い、そして聞く」と言うようになる。

これに対して、それ以前、すなわち大半の功徳を得る前には、自己愛が必ず優勢となり、彼らは彼のくびきを自らに引き受けることを拒むのである。

これが、「一つの戒めを行った者は幸いである。彼は自分自身と全世界を義の側へと傾けた」という言葉の意味である。

つまり、最終的には、イスラエルの一人ひとりの個人的な持ち分が、最終的な決定に加わるということである。

これは、ゴマを量る人が、秤の一方の皿に一粒ずつゴマを加え続け、ついに秤を傾け終えるのと同じである。したがって、当然ながら、その一粒一粒がこの決定にそれぞれの役割を果たしている。それがなければ、決定は完成しないのである。

これと同じ道理で、イスラエルの一人の行為について、彼が全世界を義の側へと傾ける、と言うのである。

なぜなら、その事柄が完成し、全世界の義の側の皿が決定的に傾いた時には、一人ひとりがこの決定にその持ち分を持っているからである。その人の行為がなければ、その決定には不足があったのである。

したがって、ラビ・エラザル・ベン・ラビ・シモンは、賢者たちの「すべてのイスラエルは互いに保証人である」という言葉と意見を異にしているのではないことが分かる。

むしろ、ラビ・エラザル・ベン・ラビ・シモンは、将来に実現する全世界の修正について語っており、賢者たちは、現在について語っているのである。現在においては、イスラエルだけがトーラーを自らに引き受けたのである。

22)

そして、これこそが、ラビ・エラザル・ベン・ラビ・シモンが聖句からその根拠を得ている理由である。

「一人の罪人が、多くの善を失わせる。」

なぜなら、前の第20項ですでに説明したように、人が、神と人との間の戒めに従事することによって受ける感動と、隣人との間の戒めに従事する際に受ける感動とは、完全に同じだからである。

なぜなら、すべての戒めは、何の自己愛的な期待もなく、リシュマのために行わなければならないからである。

つまり、その労苦によって、自分のもとへ何らかの光明や見返りへの期待が戻ってくることがあってはならないのである。報酬や名誉などを受け取ることを期待してはならない。

そして、まさにこの高い一点において、神への愛と隣人への愛は、まったく一つに結びつくのである。前述の「マタン・トーラー」の記事、第15項にあるとおりである。

したがって、その人は、それによって、全世界のすべての人々全体における隣人愛の梯子において、ある一定の程度の進歩を生じさせることになる。

なぜなら、その一人の人がその行為によって引き起こしたこの段階が、それが大きな程度であれ小さな程度であれ、最終的には、将来、世界を義の側へと傾ける決定に加わるからである。そこには、その人の持ち分も入れられ、その決定に加わるのである。

前の第20項で述べたとおりである。そこでは、ゴマを量る人のたとえをよく見てほしい。

これに対して、一つの罪を犯す人とは、汚れた自己愛に打ち勝ち、それを抑えることができず、そのために盗みなどに走ってしまう人を意味する。

そのような人は、自分自身と全世界を罪の側へと傾けることになる。

なぜなら、自己愛の汚れを露呈させることによって、創造における卑しい性質が再び強まり、勢力を増すからである。

その結果、その人は、最終的に義の側へと傾ける決定から、ある一定の分量を差し引いてしまうことになる。

これは、ちょうど誰かが秤の皿から、仲間がそこに置いた一粒のゴマを再び取り去るようなものである。

その結果、その分だけ、罪の側の皿が再び少し上へと持ち上がるのである。

したがって、その人は世界を後退させることになる。

これが、「一人の罪人が、多くの善を失わせる」という言葉の意味である。

ほんの小さな欲望を抑えることができなかったために、その人は、世界全体の霊性を後ろへ押し戻す原因となったのである。

23)

以上のことによって、前の第5項でわれわれが立ち止まって考えたこと、すなわち、なぜトーラーが特にイスラエル民族の系統にのみ与えられたのかということが、よく説明される。

なぜなら、ここには二つの異なる意見など、決して存在しないからである。創造の目的という事柄が、全人類全体に課せられていることに疑いはない。

黒人であれ、白人であれ、黄色人種であれ、本質的には何の違いもなく、すべての人類に対してである。

しかし、前述したように、被造物の性質が最低の段階にまで下降していたため、それは自己愛という事柄であり、自己愛が全人類を際限なく支配していた。

そのため、彼らと交渉し、自己愛という狭い枠から抜け出して、隣人愛という広大な世界へ出ることを、たとえ単なる約束という形であっても、自らに引き受けることに同意するよう理解させるための、いかなる道も入口もなかったのである。

イスラエル民族を除いては、そうではなかった。

なぜなら、イスラエル民族には、まず四百年間、エジプトの野蛮な王国に隷属させられ、大きく恐ろしい苦しみを受けたという先行する事情があったからである。

そして賢者たちの言葉として知られているように、

「塩が肉を甘くするように、苦しみは人の罪を清める。」

と言われている。

つまり、苦しみは身体に大きな浄化をもたらすのである。

それに加えて、彼らの聖なる父祖たちの浄化が、前の第16項で述べたように、彼らのために立っていた。これこそが主要なことであり、そのことについては、トーラーの中のいくつもの聖句が証言している。

この二つの先行条件によって、彼らはその事柄に適した者となった。

それゆえ、その時、聖句は彼らを単数形で呼んでいるのである。

「そしてイスラエルは、そこ、山に向かって宿営した。」

と書かれている。

そして賢者たちはこれを、

「一人の人のように、一つの心で」

と解釈した。

なぜなら、国民の一人ひとりが、自己愛から完全に自分自身を引き離し、そのすべての目的を、ただ仲間に利益をもたらすことだけに置いたからである。

これは、前の第16項で「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めの意味について証明したとおりである。そこをよく参照されたい。

したがって、国民のすべての個人が互いに結びつき、一つの心、一人の人となったのである。

なぜなら、トーラーを受け取るにふさわしい状態になったのは、まさにその時だったからである。前述のとおりである。

(以下翻訳済み)

24)

したがって、上述した必然性から、トーラーはとりわけイスラエルの民、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの系統だけに与えられました。なぜなら、よそ者がそこに加わることは、いかなる者であっても考えられなかったからです。しかし、これによって、イスラエルの民は、浄化の火花が世界中の全人類へと流れ出るための、一種の通り路として設けられ、整えられました。

この浄化の火花は、望ましい程度に満たされるまで貯蔵庫に蓄えていくかのように、日々増えていきます。すなわち、人々が発達して、隣人愛の核心に宿っている快楽と安らぎを理解できるところまで成長するのです。

その時、人々は秤を功徳の側へと傾け、クリエーターのくびきの下に自らを置くことを知るようになります。そして、罪の側は地上から一掃されるのです。

25)

さて、前の記事「マタン・トーラー(トーラーの授与)」の第16項で述べた、なぜトーラーが父祖たちに与えられなかったのかという理由について、最後まで説明しなければなりません。なぜなら、「汝の隣人を汝のごとく愛せよ」という戒律は、トーラー全体の軸だからです。すべての戒律が、この戒律を中心に回り、それを説明し、解明するためにあります。

そして、この戒律は単独で実践することができず、一つになった国民全体による事前の同意があって初めて実践できるからです。したがって、そのことはイスラエルの民がエジプトを出て、これを実践するにふさわしい者となるまで続きました。そしてその時、まず民の一人ひとりに、この戒律を自らに引き受けることに同意するかどうかが尋ねられました。その後、彼らがこれに同意したため、トーラーが与えられたのです。そこをよく参照してください。

しかし、それでもなお説明を要します。トーラーの中のどこに、イスラエルの子らがこの問いを尋ねられ、トーラーを受け取る前にそれに同意したことが見出せるのでしょうか。

26)

そして、これらのことは、理解力のあるすべての者にはっきりと示されています。それは、トーラーを受け取る前に、クリエーターがモーセを通してイスラエルに送った、あの呼びかけの中にあり、次のように書かれています。

「そして今、もしあなたがたがわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは、すべての民の中からわたしにとってのセグラ(特別な宝/力/癒し)となる。なぜなら、全地はわたしのものだからである。そして、あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これらが、あなたがイスラエルの子らに語るべき言葉である」。

そしてモーセが来て、民の長老たちを呼び、主が命じられたすべての言葉を長老たちの前に差し出しました。すると、民は皆一斉に答えて言いました。

「主が語られたすべてのことを、われわれは行います」。

そしてモーセは、民の言葉を主のもとへ持ち帰りました。(出エジプト、第19章5〜8節より)

しかし、一見すると、この言葉がその役割を果たすものとは思えません。なぜなら、常識的には、誰かが仲間に何らかの仕事を提案し、その同意を得ようとするなら、その人は、その仕事がどのようなものなのか、その一例と、その報酬を説明しなければならないからです。そうして初めて、受け取る側は検討でき、断るか受けるかを決める余地が生じます。

ところが、この二つの聖句には、その仕事の例も報酬も、まったく見いだせません。なぜなら、「もしあなたがたがわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」と言っているからです。ここでは、「声」についても「契約」についても、それが何に関わるものなのかを説明していないのです。

次に、「あなたがたは、すべての民の中からわたしにとってのセグラ(特別な宝/力/癒し)となる。なぜなら、全地はわたしのものだからである」と言っています。

しかし、これだけでは、それが私たちに対する戒律なのか、つまり、すべての民の中から特別な宝となるよう努力せよと命じているのか、それとも、私たちへの恩恵の約束なのか、明らかではありません。

また、「なぜなら、全地はわたしのものだからである」という結びへのつながりも理解しなければなりません。

これについては、三人の解釈者、すなわちオンケロスやヨナタン・ベン・ウジエル、エルサレム・タルグムが、解釈に苦心しています。ラシやランバンなどのすべての注解者たちも同様です。

イブン・エズラは、ラビ・マリヌスの名を挙げて、「כי(キ)」という語の意味は「たとえ~であっても」であると述べています。そして、「あなたがたは、すべての民の中からわたしの特別な宝となる。“たとえ全地がわたしのものであっても”」と解釈しています。そしてエズラ自身の見解も、この解釈に傾いています。これをよく参照してください。

しかし、この解釈は、賢者たちの言葉とは一致しません。賢者たちは、「כי」は四つの意味で用いられると言っているからです。すなわち、「あるいは」「おそらく」「むしろ」「なぜなら」です。

ところが、ここではさらに第五の意味として「たとえ~であっても」を加えています。その後、聖句は「そして、あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と結んでいます。しかし、ここでも、その言葉自体からはそれが戒律であり、努める義務があるのか、それとも恩恵の約束なのかは、明らかではありません。

また、「祭司の王国」というこの言葉にも意味が明らかではなく、聖書のどこにも同じ表現はありません。

そして何より、ここでは少なくとも、「祭司の王国」と「聖なる国民」にどのような違いがあるのかを定義する必要があります。なぜなら、通常の祭司職の意味からすれば、聖性と同じ側面だからです。したがって当然、「すべての者が祭司である王国」は「聖なる国民」と同じです。それならば、「聖なる国民」という言葉は余分ではないでしょうか。

(以下、AI翻訳)

27)

しかし、これまでこの論文の冒頭からここまで説明してきたすべての事柄に従えば、これらの聖句は、その本来あるべき形、すなわち、提案と同意についての交渉を描くという役割に、完全に適合していることが分かります。

つまり、これらの言葉によって、実際に彼らに、トーラーと戒めの務めの形と内容のすべて、そして聞くに値するそのすべての報酬が提示されているのです。

なぜなら、トーラーと戒めの務めの形は、

「そして、あなたがたはわたしにとって祭司の王国となる」

という聖句によって表現されているからです。

「祭司の王国」とは、あなたがたの全員が、小さい者から大きい者まで、祭司のようになるという意味です。

すなわち、祭司には土地における分け前も、相続地も、いかなる物質的な所有もなく、主が彼らの相続地であるのと同じように、国民全体も、その全体として整えられるということです。

その結果、土地とそこに満ちるすべてのものは、そのすべてが主に捧げられたものとなります。

そして、いかなる個人も、それに携わるのは、ただ聖なる方、彼に祝福あれの戒めを実行し、仲間の必要を満たし、仲間がその願うものに何一つ不足しないようにするためだけです。

このようにして、いかなる個人も、自分自身の必要について何ら心配する必要がなくなります。

このような状態では、収穫や種まきなどの世俗的な仕事さえも、まさに、祭司たちが神殿で行っていた犠牲の務めと同じものと見なされます。

というのも、主への全焼のいけにえを捧げる戒め、すなわち積極的な戒めに従事することと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という積極的な戒めを実行することとで、何が違うのでしょうか。

したがって、自分の畑を耕す者が、それによって他者を養うために耕しているなら、それは主に犠牲を捧げるために立っている者と同じなのです。

それだけではありません。理性からすれば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という積極的な戒めのほうが、犠牲を捧げる者よりもさらに重要であることが分かります。その理由については、前の第14項と第15項で証明したので、そこをよく参照してください。

しかし、それでもまだ事柄の完成ではありません。なぜなら、トーラーと戒めのすべては、イスラエルをそれらによって浄化するためにのみ与えられているからです。それは身体の浄化であり、前の第12項で述べたとおりです。

そしてその後、彼は、それらによって、真の報酬を得ることになります。それは、彼とのデヴェクート(結合)であり、創造の目的です。前の第6項で述べたとおりなので、そこをよく参照してください。

そして、この報酬は「聖なる国民」という言葉によって表現されています。

彼とのデヴェクートによって、私たちは聖なる者となるからです。次のように書かれているとおりです。

「あなたがたは、あなたがたの神、主のために聖なる者となりなさい。なぜなら、わたし、主は、あなたがたを聖なる者とする者だからである。」

このことから、「祭司の王国」という言葉には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めを中心とした、務めの形のすべてが表現されていることが分かります。

すなわち、全員が祭司である王国であり、主が彼らの相続地であり、いかなる物質的な所有も自分自身のものとして持たないのです。

そして私たちは必然的に認めなければなりません。これこそが、この「祭司の王国」というものについて理解できる唯一の定義なのです。

なぜなら、それを祭壇に犠牲を捧げることとして解釈することはできないからです。それを国民全体について言うことは不可能です。なぜなら、誰が犠牲を捧げるのでしょうか。また、祭司への贈り物を受け取ることとして解釈することもできません。誰が与えるのでしょうか。

また、それを祭司たちの聖性について述べていると解釈することもできません。すでに「聖なる国民」と言われているからです。

したがって必然的に、この事柄の意味全体は、ただ、主が彼らの相続地であり、彼ら自身のためのいかなる物質的な所有も持たないことにあるのです。

そしてこれは、前述したように、トーラー全体を包含する「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の程度なのです。

一方、「聖なる国民」という言葉には、報酬の形のすべて、すなわち前述したデヴェクートが表現されています。

28)

そして今、先にある言葉も、そのすべての意味において、よく理解できます。

「そして今、もしあなたがたがよくわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら。」

と言っています。

つまり、ここで私があなたがたに語っていることについて、契約を結ぶということです。

すなわち、

「そして、あなたがたはわたしにとって、すべての民の中からの特別な宝となる。」

ということです。

つまり、あなたがたがわたしにとって特別な宝となるということです。

あなたがたを通して、浄化と身体の浄化の火花が、すべての民、すなわち世界のすべての国々へと移っていくのです。

なぜなら、世界のすべての国々は、まだこの事柄のためにまったく準備ができていないからです。

そして私は、少なくとも一つの国民を必要としており、今、それを始めなければなりません。その国民が、すべての民の中からの特別な宝となるのです。

したがって、そのことについてこう結んでいます。

「なぜなら、全地はわたしのものだからである。」

つまり、地上のすべての民は、あなたがたと同じように私に属しているということです。そして、彼らは最終的に私に結合することになります。前の第20項で述べたとおりです。

ただ今、この時点では、彼らはまだこの役割を果たすことができません。そのため、私は特別な宝となる一つの民を必要としているのです。

そして、もしあなたがたがこれに同意するなら、すなわち、すべての民の中からの特別な宝となるなら、私はあなたがたに命じます。

「そして、あなたがたはわたしにとって『祭司の王国』となる。」

これは、隣人愛の側面、すなわち「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めの最終的な形であり、トーラーと戒め全体の軸です。

そして、

「聖なる国民」

とは、報酬の最終的な形、すなわち「彼に結合せよ」であり、知らせることのできるすべての報酬を包含しています。

そしてこれこそが、賢者たちが、「イスラエルの子らに語るべきこれらの言葉」という結びについて説明してくれたことです。

彼らは「これらの言葉」という表現を正確に取り上げて、「これらの言葉、少なくもなく、多くもなく」としました。

しかし、これは難しいことです。なぜなら、モーセが主の言葉を多くしたり、少なくしたりするだろうと、いったい何を根拠に考えられるのでしょうか。なぜ聖なる方、彼に祝福あれが、そのことについて彼に警告する必要があるのでしょうか。

トーラー全体の中に、このような例は見いだせません。

むしろ、聖句にはモーセについて、

「彼はわたしの家全体において忠実な者である」

と明記されています。

29)

以上のことによって、務めの形、その最終的な姿について、すなわち「祭司の王国」という言葉によって説明されているものについて、よく理解できます。

これは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の最終的な定義です。

実際、モーセが、イスラエルの子らに一度にそのような非常に大きく高尚な形で、務めの形を明らかにすることを思いとどまることは、十分考えられたことでした。

なぜなら、イスラエルの子らが、物質的な所有をすべて手放し、その全財産と所有物を主に引き渡すことに同意しないのではないかと恐れたからです。「祭司の王国」という言葉が示しているのは、まさにそのことだからです。

これは、ランバムが書いていることに似ています。女性や子どもたちには、報酬を受け取らないために行われなければならない、純粋な奉仕という事柄を明らかにすることは禁止されている、と彼は述べています。

ただ、彼らが成長し、知恵を身につけ、先に述べたように、それを実行する勇気を持つようになるまで待つのです。

したがって、聖なる方、彼に祝福あれは、モーセに先立って、上述の警告を与えました。

「少なくしてはならない。」

つまり、彼らに、そこに表現されている崇高な大きさのすべてを伴った、真の性質を提示しなさい。それは「祭司の王国」という言葉に表現されています。

同様に、「聖なる国民」という言葉によって定義されている報酬についても、モーセは、彼とのデヴェクートに秘められた崇高な快楽と洗練を、彼らに過度に説明し、詳しく語ることを考えた可能性があります。

そうすることで、彼らを適合させ、近づけ、この非常に大きな高みに同意して受け入れるようにするためです。すなわち、祭司のように、この世のすべての所有を完全に手放すことです。

したがって、彼には次の警告が与えられました。

「多くしてはならない。」

ただ、黙っておきなさい。そして、「聖なる国民」というこれらの言葉に含まれている報酬のすべての側面を説明してはならないのです。

その理由は、もし彼が報酬の本質にある驚くべき偉大さを彼らに明らかにしたなら、必然的に彼らは混乱し、この大きな報酬を自分自身のために得ることを目的として、彼への務めを受け入れてしまうからです。

それは、自分自身に仕える者と見なされ、自己愛となります。その結果、目的全体が逆転してしまいます。前の第13項で述べたとおりなので、そこをよく参照してください。

そして今、明らかになりました。

「祭司の王国」に表現されている務めの形については、「少なくしてはならない」と彼に言われました。

一方、

「聖なる国民」という言葉に表現されている、報酬についての秘められた程度については、「多くしてはならない」と彼に言われたのです。