2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン5「テン(十人)の中からの祈り」のテキストです。
レッスン教材として、ラバシュの記事「多くの者の祈り」(1986年の記事 第15番)とレッスン準備のための追加教材(抜粋)の2種類があります。
※2026年2月16日更新
レッスン5「テン(十人)の中からの祈り」
レッスン教材「多くの者の祈り」1986年の記事 第15番(ラバシュ)
レッスン5の準備ための追加テキスト(抜粋)
1. 集まりの秩序 ラバシュによる1984年の記事 第17番 第2部
集まるときには、まず友人たちへの賛辞を整えなければなりません。すなわち、友人一人ひとりがいかに重要であるかを認識するのです。社会(仲間)を偉大とするその度合いに応じて、人は社会を尊ぶことができます。
その後で、祈ります。すなわち、各人は自らを吟味し、自分がどれほど社会のために力を与えているかを検討しなければなりません。そして、自分には社会のためになることを行う力がないと見るとき、そこに祈りの場があります。すなわち、クリエーターが人を助け、他者への愛に従事するための力と意志を彼に与えてくださるように祈るのです。
2.『リクテイ・ハラホット』(ブレスラフのラビ・ナフマン)
祈りの家は「会堂(ベイト・ハクネセト)」と呼ばれます。それは、そこで祈る祈りによって、すべての魂が集められるからです。祈りとは魂の相(一形態)です。
それゆえ、祈りの本質は会堂にあり、すなわち公衆とともにあります。魂の上昇とその完成の本質は、すべての魂が包含されて一つとなるときにあるためです。そのとき人は聖性へと昇ります。聖性は一つだからです。
それゆえ、魂とみなされる祈りは、魂が一つに結ばれることにかかっています。したがって、祈りの前に「汝の隣人を汝のごとく愛せよ」という積極的な戒律を自らに受け入れなければなりません。なぜなら、イスラエルの全魂と結ばれる平和を通してでなければ、祈りの言葉を語ることはできないからです。
それゆえ、祈りの本質は公衆にあり、個人ではありません。そして、各人がそれぞれ分離した存在であってはなりません。それは聖性の反対です。そうではなく、聖なる会衆を一つに結び、一つとなる必要があります。これがとりわけ会堂における公衆の祈りです。そこでは魂が集まり、結ばれます。これこそが、祈りの完成なのです。
3.『シャアル・ハギルグリム』序文38
私の師(アリザル)は私と、彼とともその集まりに属していたすべての友人たちに警告しましました。朝の祈りの前に、「汝の隣人を汝のごとく愛せよ」という積極的な戒律を自らに受け入れるべきであると。そして、イスラエルの一人ひとりを自分の魂のように愛する意図を持つべきである、と。
これによって、祈りはイスラエル全体を含んだものとして上昇し、上において是正をなすことができます。とりわけ私たちの友愛においては、私たち一人ひとりが、自分を友人たちの器官の一つであるかのように含めなければなりません。私の師はこの件について、私にとても強く警告しました。
4. 『平和への愛』(コソフのラビ・メナヘム・メンデル)
人が友のために祈るとき、その人は授与のための管(チャネル)となり、その友に与える存在となります。その授与は祈っている本人を通っていくため、必然的にその人が最初に応えられることになります。
これによって「祝福する者は祝福される」という聖句が理解できます。祝福する者は授与の管となるからです。それゆえ、祝福する人は祝福されます。なぜなら「祝福(ブラハー)」とは「池(ブレイハー)」という語と同根で、善なる授与の通り道という意味だからです。
ただしこれは、祝福する者と祝福される者とが互いに愛し合い、真実かつ完全な統合がある場合に限られます。そのとき彼らは上の管を呼び覚まし、それは義なる者――すなわち通路――を通して流入することができるようになるのです。
5. 多くの者の祈り(ラバシュによる1986の記事 第15番)
これによって、多くの者による祈りの重要性が理解できます。「私は自分の民の中に住む」と書かれているように、『ゾハールの書』は次のように述べています。
「それゆえ、人は決して民から離れてはならない。クリエーターの慈悲は、常に民全体の上にあるからだ」。
その意味は次のとおりです。
もし人が、「クリエーターが憐れみ深い方であるように、汝も憐れみ深くあれ」と賢者たちが言ったように、授与の器を与えてくださるようクリエーターに願うのであれば、その人は全体のために祈らなければなりません。なぜなら、そのとき初めて、その人の意図が、クリエーターが純粋な授与の器を与えてくださることにあると明らかになるからです。
なぜなら、クリエーターの憐れみは、常に民全体の上に共にあるからです。また、よく知られている「上から半分のものが与えられることはない」という言葉の意味は、上から下へと豊かさが与えられるのは、全体のためである、ということです。
6. 多くの者の祈り(ラバシュによる1986の記事 第15番)
その助言とは、共同体全体のために求める、というものです。すなわち、自分に欠けていると感じるものがあり、それを満足させてほしいと求めるとき、自分が例外であるかのように考えてはなりません。つまり、共同体全体よりも、自分の方が多くを受ける資格がある、などと言ってはならないのです。そうではなく、「私は自分の民の中に住んでいる」と言うべきです。
すなわち、共同体全体のために求めるのです。なぜなら、自分のために何かを気遣うことのない状態、ただクリエーターに満足(ナハト・ルアハ)をもたらすためだけに生きる状態に到達したいからです。
7. 家畜を集める時ではない(バール・ハスラム)
これが公衆の祈りの秘義です。個人は全体から出てはならず、自分のために祈ってはなりません。それが、たとえクリエーターに満足をもたらすためであってもです。ただ、全体のためだけに求めるのです。(中略)
なぜなら、全体から出て自らの魂のために特別に求める者は、自らの魂を建てるのではなく、むしろ破壊をもたらすからです。それは、ミドラーシュに「すべて高慢な者は……」と言われている通りであり、これがその秘義なのです。公衆から離れる者が、高慢という衣をまとわずにいることはあり得ません。ああ、自らの魂に破壊をもたらす者に災いあれ。
8.多くの者の祈りにある重要性(ラバシュによる1986年の記事 第7番)
多くの者の祈りはクリエーターの前に昇り、クリエーターはその祈りで冠を戴かれます。なぜなら祈りが多くの様式で昇るからです。ある者は慈しみ(ヘセド)を求め、別の者は力(ゲヴラ)を、また別の者は慈悲(ラハミーム)を求めます。
その祈りは、右と左、中央という多くの側面を包含します。多くの様式と側面を含むことにより、それは冠となり、「永遠の生命なる義なる者」の頭に置かれます。すなわちイェソドであり、すべての救いをヌクヴァへ与え、そこから全会衆へと与えられるのです。
9. 『ゾハール・ラアム』「ゾハールの書 序文」論文「トーラーと祈り」
私たちが祈る祈りは、聖なるシェヒナを是正するためのものです。すなわち、シェヒナに豊かさを引き寄せ、シェヒナのすべての欠乏を満たすためです。それゆえ、願いはすべて複数形です。たとえば、「私たちに知識を恵みたまえ」「私たちの父よ、あなたの律法へと私たちを帰らせたまえ」などです。
なぜなら祈りはイスラエル全体のためであり、聖なるシェヒナの中にあるものはすべてイスラエル全体の中にあるからです。そして、シェヒナに欠けているものは、イスラエル全体にも欠けています。したがって、私たちがイスラエル全体のために祈るとき、それは聖なるシェヒナが必要とするために祈っています。両者は同一なのです。
それゆえ、祈りの前に、私たちはシェヒナの欠乏を見つめなければなりません。そうしてこそ、シェヒナのうちで何を是正し、何を満たすべきかを知ることができます。
10.多くの者の祈りにある重要性(ラバシュによる1986年の記事 第7番)
人が清められるために来るとき、すなわちクリエーターが自分を引き寄せ、授与の器を与えてくださることを望み、それによってデヴェクート(結合/内的交わり)に値するようになることを望むとき、上なる豊かさが現れるのは、すべて授与するためです。すなわちその人は、上から力を与えられ、常に聖性(デヴェクートという側面)の中にある能力を持ちたいと望んでいます。
そのとき彼の祈りから冠が作られます。すなわち王の冠です。なぜならそのとき王の重要性が明らかになるからです。
これが聖なるゾハールの言う、「祈りは冠となり、『永遠に生きる義なる者』の頭に置かれる」という意味です。すなわちイェソドであり、すべての救いをヌクヴァへと流入させ、そこから全会衆へと与えるのです。
なぜなら、祈りを通して上なる豊かさが下の者たちに与えられ、そのとき善と喜びが明らかになるからです。これが王の冠と呼ばれるものであり、王の重要性です。