2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン4「テン(十人)における相互保証」のテキストです。
レッスン教材として、ラバシュの記事「あなたがたは今日、皆ここに立っている」(1984年の記事 第19番)とレッスン準備のための追加教材(抜粋)の2種類があります。
※2026年2月8日更新
レッスン4「テン(十人)における相互保証」
レッスン教材「あなたがたは今日、皆ここに立っている」1985年の記事 第25番(ラバシュ)
レッスン4の準備ための追加テキスト(抜粋)
1.相互保証(バール・ハスラム)
これが相互保証(アラヴート)についてであり、全イスラエルが互いに責任を負い合う保証人となったということです。
なぜなら、イスラエルにトーラーが与えられたのは、その一人ひとりが、「汝の隣人を汝の如く愛せ」という言葉に表されている、他者を愛するというミツヴァ(戒律)を、その完全な度合いで自ら引き受けることに同意するかどうかと、一人ひとりに問いただされた後であったからです。(中略)
すなわち、イスラエルの一人ひとりが、人間の本質として刻み込まれている自らの必要のための配慮に少しも劣ることなく、民の仲間一人ひとりのために配慮し、務め、そのすべての必要を満たすことを、自ら引き受けるということです。
そして、民全体が満場一致でこれに同意し、「私たちは行い、そして聞く」と言ったとき、イスラエルの一人ひとりは、民の仲間が誰一人として何も欠けることがないようにする責任を負い、その保証人となりました。そのときにこそ、イスラエルはトーラーを受け取るにふさわしい者となり、それより前はそうではなかったのです。
2.相互保証(バール・ハスラム)
この全体的な相互保証によって、民の一人ひとりは、自分自身の体が必要とすることに関するすべての心配から解放され、「汝の隣人を汝の如く愛せ」というミツヴァ(戒律)を、その完全な度合いで成就(じょうじゅ)できるようになります。そして、必要とする者には、自分の持つすべてを与えることができるようになるのです。
なぜなら、もはや自分自身の体の存続について恐れることがなく、周囲には六十万人の忠実な愛する者たちがおり、自分のために配慮する準備ができていることを知り、確信しているからです。
3.相互保証(バール・ハスラム)
タンナーは、相互保証について、乗船中の二人に例えて説明しました。そのうちの一人が、船に穴を開けようとして、自分の座っている場所の下を削り始めました。そして、仲間は彼にこう言いました。
「なぜ削っているのだ?」
彼は答えました。
「お前には何も関係ない。私は自分の下を削っているのであって、お前の下ではないではないか」
すると、仲間はこう言ったのです。
「愚か者め。私たち二人とも、この船とともに溺れてしまうではないか!」
4.相互保証(バール・ハスラム)
彼らは互いに責任を負い合う保証人です。それは、肯定の側面においても、否定の側面においてもです。
肯定の側面とは、すなわち、もし彼らが相互保証を守り、一人ひとりが仲間の全欠乏を気遣い、満たすならば、その結果として、トーラーとミツヴァ(戒律)を完全に守ることができるようになる、ということです。そうして、創り主(クリエーター)に満足(ナハト・ルアハ)をもたらすことができます。(中略)
一方、否定の側面とは、すなわち、もし民の一部が相互保証を守ろうとせず、自己愛に溺れることを望むならば、その者たちは残りの民をも、そのけがらわしさと卑しさの中にとどまらせます。つまり、そのけがれた状態から抜け出すいかなる出口も見出せないようにしてしまう、ということです。
5.『リクテイ・ハラホート』ホーシェン・ミシュパート、保証の法
相互保証によってこそ、すなわち、皆が一つとして数えられるときこそ、トーラーの真の成就があります。なぜなら、愛と一体性(統一)の本質は「意志(欲求)」にあるからです。すなわち、各人が互いに満足させ合い、その意志に何の違いもなく、皆が一つの意志の中に包含される状態です。そして、このことによって、彼らは上位の意志の中に包含されます。それこそが、一体性の究極の目的なのです。
6.手紙 42番(ラバシュ)
「民は、ひとりの人のように、ひとつの心で宿営した」と書かれています。これは、すべての者が、創り主(クリエーター)のためという、ただ一つの目的を持っていた、という意味です。(中略)
しかし、ここで理解すべきことがあります。いかにして「ひとりの人のように、ひとつの心で」あり得るのでしょうか。賢者たちが言ったように、「顔が互いに似ていないように、考えも互いに似ていない」のに、どうして「ひとりの人のように、ひとつの心で」あり得るのか、ということです。
答えは次の通りです。もし、各人が自分自身の必要だけを気遣っている状態を指しているのであれば、彼らが「ひとりの人」であることは不可能です。なぜなら、彼らの考えは互いに等しくないからです。
しかし、もし皆が自らの私的な支配を無にし、ただクリエーターの益のためだけを気遣うのであれば、もはや彼らには個別の考えというものは存在しなくなります。すべての個別性が無化され、皆が「唯一たる者の支配」の中へと入るのです。
7.『ノアム・エリメレフ』リクート・ショシャナー
人は常に、友のために祈らなければなりません。自分自身のためだと、あまり多くのことができないからです。つまり、「囚われの身は、自らを牢獄から解放することができない」ということです。しかし、友のためであれば、速やかに応えがあります。
ゆえに、各人は友のために祈らなければなりません。そうして、この者があの者のために務め、あの者がこの者のために務めて、最終的に、皆に応えがあるのです。(中略)
「互いにアレヴィーム(責任を負い合う保証人)である」とは、「アレヴィン」(甘美さ)という意味です。互いのために祈ることによって、互いを甘美にするからです。すなわち、各人が友のために祈ることによって、応えがもたらされるのです。
8.「多数の祈り」(ラバシュによる1986年の記事 第15番)
助言とは、共同体全体のために求めることです。すなわち、自分に欠けていると感じるものがあり、それを満たしてほしいと求めるとき、自分が例外であるかのように考えてはなりません。つまり、共同体全体よりも、自分の方が多くを受ける資格がある、などと言ってはなりません。
むしろ、「私はわが民の中に住んでいる」と考えます。すなわち、共同体全体のために求めるのです。なぜなら、自分のために何かを気遣うことのない状態、ただクリエーターに満足(ナハト・ルアハ)をもたらすためだけに生きる状態に到達したいからです。
それゆえ、クリエーターが私から喜びを得ても、あるいは他の人たちからその喜びを得ても、自分にとっては何の違いもありません。つまり、「すべてがクリエーターのため」と呼ばれる理解を、私たちに与えてくださいと、
クリエーターに祈るのです。それは、自分がクリエーターに与えたいと願っていることで、
自分自身を欺いていないと確信できる理解です。なぜなら、実際には、自己愛、すなわち自分が善と喜びを感じたいという欲求だけを考えている場合があるからです。
このために、人は共同体全体のために、クリエーターに祈るのです。
9.「人はその友を助けよ」(ラバシュによる1984年の記事 第4番)
皆に共通する一つの問題、それは心の状態(気分・精神状態)です。賢者たちは「人の心にある憂いは、他者に語るべきである」と言っています。なぜなら、人が高められた心の状態にあるためには富も知恵も、その他いかなるものも助けにはならないからです。
ただ人だけが、生の感覚が沈んでいる状態にある他者を見たときに、その人を助けることができます。そして、「人は、自らを牢獄から解放することはできない」と書かれています。自分ではなく、友だけが、その人を高められた心の状態へと導くことができるのです。
すなわち、友が、その人を今ある状態から引き上げ、生きる力に満ちた心の状態へと持ち上げます。するとその人は再び、生と豊かさへに対する確信を得始め、まるで、自分の最終目的がすぐ近くにあるかのように感じ始めます。
ここから導かれるのは、一人ひとりが、友の心を高められた状態にするために、何ができるかを注意深く考えなければならないということです。なぜなら、心の状態という点においては、誰もが友の中に、満たすことのできる欠如の場所を見出すことができるからです。
10.『花嫁の二十四の装飾に関する講話』(ラマハル)
「あなたは何から何まで美しい、わが愛する人よ」。
「すべての魂がクリエーターを讃える」。
完全となるためには、他の魂がすべてその中に結び合わされ、皆がその中で一つとなる必要があります。そのとき、シェヒナ(神性)は大いなる是正のうちに輝き、そのときこそ
「あなたはことごとく美しい、わが愛する人よ」となり、いかなる欠陥も残りません。
なぜなら、相互保証の力によって、各人が他者のために是正し、その結果、すべてが是正された状態となるからです。