2026年2月のワールド・カバラ・コングレス、レッスン3「真のつながりを妨げるもの」のテキストです。
レッスン教材として、ラバシュの記事「人は常に自分の家の梁を売るべきである」(1984年の記事 第9番)とレッスン準備のための追加教材(抜粋)の2種類があります。
※2026年2月7日更新
レッスン3「真のつながりを妨げるもの」
レッスン教材:ラバシュの記事「人は常に自分の家の梁を売るべきである」(1984年の記事 第9番)
レッスン3の準備ための追加教材(抜粋)
1.『シャマティ』第172番「妨げと遅延の問題」(バール・ハスラム)
私たちの目の前に現れ、顕れてくるあらゆる妨げや遅延は、「近づき」の形態にほかなりません。すなわち、クリエーターが、私たちをご自身に近づけようとしておられるのです。妨げはすべて、ただ近づきのみを私たちにもたらします。なぜなら、もし妨げがなければ、クリエーターに近づく可能性がまったくないからです。
本質的に、私たちとクリエーターの間ほど大きな隔たりはありません。刻まれた物質である私たちに対し、クリエーターは「至高の上」におられるからです。ただし、人はクリエーターに近づき始めたときに、はじめてその距離を感じ始めます。そして、人が乗り越える妨げの一つひとつが、その人にとっての道を近いものにします。
なぜなら、人は「遠ざかっていく」線上を歩くことに慣れているからです。したがって、自分がどれほど遠いところにいるかと感じても、そのたびにその過程に変化がもたらされるわけではありません。つまり、あらかじめ、遠ざかっていく線上を進んでいることを知っている、ということです。これは、私たちとクリエーターの隔たりが、言葉では言い尽くせないほど大きいという真実によります。ゆえに、思っていた以上の隔たりを感じたとしても、その都度憤りを引き起こすことはないのです。
2.『リクテイ・モハラン』後編 第48章
人がクリエーターへの務めに入るとき、その道において、自分とクリエーターとの距離が明確に示されます。人にはそれが、上から突き放され、クリエーターへの務めに入ることをまったく許されていないかのように思えてしまいます。しかし実際は、距離が明らかにされるそのこと自体が、真の近づきにほかなりません。
そして、人は、決してそのようなことがあってはなりませんが、自分の思考にやられて倒れてしまわないように、非常に、非常に強く自らを支えなければなりません。すなわち、幾日も幾年も過ぎ去り、クリエーターへの務めのために多大な努力と苦労を重ねてきたにもかかわらず、いまだ非常に遠く、まったく神聖さの門に入っていないのを見たときです。なぜなら、いまだ自分には粗さと物質性が満ちていて、思考と大きな混乱に支配されており、クリエーターへの務めにおいて成し遂げたいと願うどのような聖なる行為も許されていないと感じるからです。
そのため、人にはクリエーターが自分をまったく見ておらず、自分の務めを望んでおられないかのように思えてしまいます。なぜなら、毎度、叫び、懇願し、ひれ伏して、務めにおいて助けてくださるよう願い求めているのに、それにもかかわらず、なおも非常に、非常に遠いままであると感じるからです。
しかし、これらやこれに類するすべてのことについて、人はきわめて大きな自己の強めを必要とします。すなわち、自らを非常に、非常に強め、これらすべてを一切顧みてはなりません。なぜなら、真実においては、距離を示されることはすべて、近づいていることにほかならず、上述したことはどれも、すべての正しき者たちが辿ってきた道だからです。
3. クリエーターへの務めにおける「ほかの神々」とは(バール・ハスラム)
体の抵抗は、「異質な思考(よそから来る思考)」という形で人に現れます。それはやって来て、「誰が」「何が」という問いを投げかけてきます。これらの問いを通して、人は「問いはすべて、クリエーターへの務めから自分を妨げるために、シトラ・アフラ(他側)が送ってきたに違いない」と言います。
しかし、もしそのとき、それらがシトラ・アフラの側から来たと言うならば、人は「我が前に、ほかの神々を造ってはならない」と書かれていることに違反することになります。そうではなく、人はそれが聖なるシェヒナ(神性)の側から来たのだと信じなければなりません。なぜなら「クリエーター以外に他はあらず」だからです。
ただし、聖なるシェヒナは、人に自らの真の状態を示しています。すなわち、その人がどのようにクリエーターへの道を歩んでいるかを示すのです。つまり、シェヒナが人に「異質な思考」と呼ばれる問いを送ることによって、その問いにどのように答えるかを見るということです。人はこれらすべてを通して、クリエーターへの務めにおける自分の真の状態を知り、何をなすべきかを知る必要があります。
4.「リシュマとロー・リシュマ」(ラバシュによる1986年の記事 第29番)
人は、自分がスピリチュアリティから遠く離れているのを見るとき、「本当のところ、私には何が求められているのか。何をなすべきなのか。到達すべき目的は何か」と考え始めます。そして、自分にはクリエーターに務めるための力がまったくないことを自覚し、「天と地の間」の状態にいる自分を見つけるのです。
そのとき、人が自らを強める唯一のよりどころは、「助けられるのはクリエーターだけであり、自分自身の力ではどうすることもできない」という認識だけです。これについて次のように言われています。
「しかし、主を待ち望む者たちは新たな力を得る」(イザヤ40章31節)。
これは、クリエーターを待ち望む人々のことを意味しています。すなわち、その者たちは、この世において自分たちを助けることのできる他の存在はないということを知っているがゆえに、その都度、新しい力を得るという意味です。
したがって、この下降こそが、まさに上昇なのです。すなわち、その者たちが感じているこの下降によって、階段を上ることができます。なぜなら、「器なくして光はない」からです。
5.『シャマティ』第1番「クリエーター以外に他はあらず」(バール・ハスラム)
人はそれを、自分の小さな器官に痛みがあるかのように想像すべきです。それは、主に脳と心に感じられます。脳と心は人のすべてです。当然ながら、器官単体が感じる痛みと、全身が感じる痛みは比較になりません。
人がクリエーターから遠ざけられたと感じるときの痛みについても同様です。シェヒナはイスラエルに共通の魂であり、人はその中の一つの器官にすぎません。そのため、シェヒナが自らの器官を引き離され、養うことができなくなったときに感じるシェヒナの悲痛は、個々の痛みを超えた、より深い嘆きとなります。個々の器官が感じる痛みは、全体の痛みの感覚とは異なるからです。
(これは、賢者たちが「『人が悔いる時、シェヒナはなんと言うのか?』『それは私の頭より軽い』」と述べた通りであると考えるべきです)。遠ざけられたことの悲しみを自分の嘆きにしなければ、自分のために受け取りたいという欲求の罠、すなわちケドゥーシャから切り離される罠に陥ることを防ぐことができます。
6.手紙 第4番(バール・ハスラム)
あなたに欠けているものは何もありません。ただ、主(クリエーター)が祝福された野に出て行き、あなたの魂から垂れ下がり、離れてしまった弱った器官をすべて集め、一つの体へと結び合わせるだけです。
その完全な体の中に、クリエーターはご自身のシェヒナを、絶え間なく、常しえ(とこしえ)に宿らせられるでしょう。そして、豊かな知恵の泉と、高次の光の流れが、尽きることのない泉のように湧き出るでしょう。
7.『ゾハール・ラアム』テツァヴェ(命じよ)「あなたが荒野で見たこと」第86項
闇の中から出てくるもの以外に、光はありません。なぜなら、闇の側が屈するとき、クリエーターは高められ、その栄光が増すからです。また、クリエーターの働きが現れるのは、闇の中からだけです。善は悪の中から生じるもの以外にないのです。
人が悪しき道に入り、それを去るとき、そのことによってクリエーターの栄光が高められます。それゆえ、すべての完全性とは、善と悪が共にあり、その後、悪にとどまらず、善の側へ移行することにあります。悪から出てくるもの以外に、善はありません。そして、その善の中で、クリエーターの栄光は高められます。これが、完全なクリエーターへの務めです。
8.「十個のセフィロトの研究への序文」第133項(バール・ハスラム)
彼らの中で、忍耐という資質に支えられた勇敢な者たちだけが、番人たちに打ち勝ち、門を開きました。そして直ちに、王の御前に迎えられる栄誉を得て、王は各自にふさわしい持ち場を任命しました。
そして言うまでもなく、それ以降、彼らはあの番人たちと、もう何の関わりも持たなくなりました。幾日、幾年と、門の前を行きつ戻りつしている彼らをそそのかし、迷わせ、その人生を苦いものにしていた番人たちとの関わりがなくなったのです。なぜなら彼らは、王の宮殿内において、王の御顔に輝く栄光の前で働き、仕えるという報いを得たからです。
9.「人は常に自分の家の梁を売るべきである」(ラバシュによる1984年の記事 第9番)
私たちは、クリエーターが私たちに与えるものはすべて、私たちの善のためであると信じねばなりません。たとえ、何事も災いが起こらぬように、クリエーターがそれらの苦難を取り除いてくださるよう祈らなければならないとしてもです。
しかし私たちは、祈ることと、祈りが聞き入れられることは別であると知っておく必要があります。すなわち、私たちが自分に課せられたことを行ったなら、そのときクリエーターは、私たちにとっての善をなされるのです。これについては、「クリエーターは、御自身の目に良しとされることをなさる」と言われています。
10.「幸いなるかな、その人」 (ラバシュによる記事 第337番)
「クリエーターによって懲らしめられる人は幸いである」とあります。しかし、創造の目的は、被造物に善をなすことではないのでしょうか。それならば、これはその目的と真逆であるように思われます。
これについては、次のように解釈することができます。すなわち、よく知られている「すべての枝は、その根に似ようとする」ということです。「ゾハールの書への序文」に書かれているように、この世のすべては安らぎを愛しています。
しかしこれは、人が棒を手に持ち、皆を働かせるために打っているようなものです。したがって、人々は棒で打たれる苦しみから救われるために、自分の安らぎを放棄しなければなりません。
この棒とは、人が何かを欠いていると感じるときの苦しみです。そのため、食べるものがないという欠乏があるとき、人は空腹という苦しみを鎮めるために働かざるを得ません。欠乏が大きければ大きいほど、人はより多くの努力を強いられ、必ず自分が切望しているものを得なければならなくなります。
したがって、もしクリエーターが、スピリチュアリティをまったく持っていないという欠乏において人に苦しみを与えるなら、その苦しみが人に多大な努力を強い、欠けていると感じているスピリチュアリティを、必ず得るに至らせます。