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2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン2「汝らは我を造った」のテキストです。

レッスン教材として、ラバシュの記事「あらゆることにおいて、光と器を区別しなければならない」(1985年の記事 第25番)とレッスン準備のための追加教材((抜粋)の2種類があります。
※2026年1月31日更新

レッスン2「汝らは我を造った」

レッスン教材:「あらゆることにおいて、光と器を区別しなければならない」1985年の記事 第25番(ラバシュ)


レッスン2の準備ための追加教材(抜粋)

1.手紙76番(ラバシュ)

「もし、汝らが我が掟に従って歩み、我が戒律を守り、それを行うなら」。これについて、聖なる『ゾーハルの書』は次のように問うています。

「すでに『歩む』そして『守る』と言っているのに、なぜさらに『行う』と言う必要があるのか」。
それに対しての答えはこうです。「トーラーのミツヴォット(戒律)を行い、クリエーターの道を歩む者は、あたかも上においてクリエーターを成したかのようである。クリエーターは『まるでその者たちが我を造ったかのようだ』と言われた。これが『それを行う』の意味であり、あたかも『汝らは我を造った(あなたがたがわたしを造った)』かのようだ、という意味である」。

 

2.記事588番 「上の者のマルフットは、下の者のケテルとなる」(ラバシュ)

『ゾハール』はベフコタイの箇所で、「『そして、それを行え』とは、オタム(彼ら)と読まず、アッテム(あなたがた)と読め」と解釈しています。すなわち、あたかもあなたがたがそれらを造ったかのようである、という意味です。
『ゾハールのスラム(梯子)の注釈書』では、下の者たちがクリエーターによって満たされることを必要とするとき、下の者は上の者から豊かさ(シェファ)を受け取ることで「与える者」を認識するのだと解釈しています。しかし、もし受け取る者が与える者から何一つ受け取らなければ、いったいどこから与える者が存在することを知れるのでしょうか。これが「あなたの御業(みわざ)によって、わたしたちはあなたを知る」という意味になります。

 

3.「『掟と定め』がクリエーターへの務めにおいてクリエーターの名であるの意味とは」(ラバシュによる1990年の記事 第30番)

「トーラーのミツヴォット(戒律)を行い、クリエーターの道を歩む者は、あたかも上においてクリエーターを成したかのようである。クリエーターは『まるでその者たちが我を造ったかのようだ』と言われた。彼らはそれを確立した。したがって『そして、それを行え』とは、掟と定め、すなわちZA(ゼイー・アンピン)とマルフットを指すのである」と書かれている」。

すなわち、トーラーのミツヴォットを行い、クリエーターの道を歩むことによって、人は自らの魂の根、すなわち上にあるマルフットに作用し、それがZAのように、与えるためにという意図で働くようにさせるのです。これが「統合(ユフード)」と呼ばれるものです。

 したがって、「そして、それを行え」という言葉の意味は、「掟」と「定め」と呼ばれるZAとマルフットの統合を成し遂げようとする意図、ということです。そしてそれはまた、「クリエーターとそのシェヒナの統合」とも呼ばれます。 これが、被造物たちが行うべき「行い」です。

したがって、これは「それら(ZAとマルフット)が二つの名であるゆえに、被造物たちはそれらを統合させて一つとする務めを行わなければならない」、と解釈されます。すべての被造物が完全となるとき、すなわち、すべてが自らの魂の根において是正されるとき、「その日には、ハヴァヤ(主/クリエーター)は一つとなり、その御名(みな)もまた一つとなる」という聖句が成就します。これこそが、「そして、それらを行え」と書かれている、その行いなのです。

 

4.手紙 第76番(ラバシュ)

トーラーの学びとミツヴォット(戒律)を実践することは、クリエーターの御顔(みがお)の光の顕現を下へと引き下ろすためにあります。これは「その中の光が人を善へと立ち返らせる」という段階であり、それは選択によって、またリシュマ(その名のため)に従事することによって現れます。そのとき、ラビ・メイールが言った通りのこと――「トーラーをリシュマで学ぶ者には、トーラーの奥義が明かされる」など――が成就します。

これは、クリエーターの王権が下に顕現すると呼ばれる状態です。これが「そして、それらを行え――あたかも、あなたがたがわたしを造っているかのようである」という意味なのです。

 

5.「クリエーターへの務めにおいて、右と左が対立しているの意味とは」(ラバシュによる1991年の記事 第47番)

「そして、それらを行え」と書かれているのは、行いによって始まり、行いによって終わるからです。しかし、その途上には識別すべきことが一つあります。すなわち、与えるためのケリム(器)を得る前なのか、それともそれを得た後なのか、という識別です。これは、行いを通してケリム(器)を得て、その後、再び行いを通して光を得る、ということを意味します。これが「あなたの行いすべてにおいて賢くなるため」と呼ばれるものであり、すなわち、その後に「知性(理解)と、我を知る」という段階に至るのです。

 

6.「心の点」記事 第940番(ラバシュ)

神殿が破壊されたときについて、「彼らに我がために神殿を造らせよ。そうすれば、我は彼らの内に住む」と書かれています。これは、心の中の点を指しており、それはクリエーターの光が宿るべき神殿でなければなりません。それは、「我、彼らの内に住む」と書かれている通りです。

したがって、人は自らのケドゥーシャ(神性)の建造物を築こうと努めなければならず、
その建造物は、上の豊かさが入るにふさわしいものでなければなりません。これは「与える者から受け取る者へと流れ込む豊かさ」と呼ばれます。しかし、よく知られている法則によれば、与える者と受け取る者の間には形態の同等性がなければなりません。ゆえに、受け取る者もまた、与える者と同様に与えることを目的とする意図を持たなければならないのです。

これが「行い」と呼ばれるものです。それは、「彼らに我ために神殿を造らせよ」と書かれている通りであり、この行いはクリ(器)に関するものであって、光に関するものではありません。なぜなら、光はクリエーターに属し、行いだけが被造物に属するからです。

 

7.「オアー・ホゼー(反射光)について」(ラバシュによる記事 第557番)

上の光はもともと人のために用意されています。それは「子牛が乳を吸いたがる以上に、雌牛は乳を与えたがる」という言葉の通りです。私たちに必要なのは、ただクリ(器)だけなのです。ツィムツム(制約)の後、このクリ(器)はマサッフ(スクリーン)とオアー・ホゼー(反射光)と呼ばれています。そして、これが上と下を結びつけるものであり、これを通して、下の者は上の者と結びつきます。

この結びつけるものが存在しないと、下の者は上の者を見ることができず、下の者の側からすれば、上の者は存在しないかのように見なされてしまいます。

したがって、人がクリエーターのために務め始める度合い、その度合いに応じて、上の光との結びつきを獲得します。そして、その結びつきの大きさに応じて、その人の達成(クリエーターの把握)の大きさも決まるのです。

 

8. 「近道と遠い道」(ラバシュによる1986年の記事 第26番 記事)

バール・ハスラムは、クリエーターが顕れている場を「シェヒナ」と呼び、クリエーターそのものを「ショーヘン(住まわれる方)」と呼ぶと言っています。では、クリエーターはいつ「ショーヘン」と呼ばれるのでしょうか。それは、ショーヘンを達成する者が存在する場においてです。そのとき、人は「ショーヘンとシェヒナは二つではなく、一つである」と言います。

すなわち、ショーヘンとは「クリ(器)なき光」と呼ばれ、シェヒナとはクリエーターが顕れる場所になります。それゆえ、クリエーターが顕れる場に存在するものはクリエーターだけであり、それ以外のものは何もない、ということになります。ただし、そこには光と器があります。すなわち、光を獲得する器が存在するのです。

このことから明らかになるのは、クリエーターが御名(みな)を住まわせるために選ばれた場とはどこか、ということです。それは、私たちが学んでいるように、私たちの受け取る器を、クリエーターにナハト・ルアハ(満足)を与えるため、与える器へと是正しなければならないということです。これが形態の同等性の意味であり、その場において、クリエーターの御名が顕れるのです。

 

9. 手紙 第76番 (ラバシュ)

さて、「全地はその栄光に満ちている」ということはよく知られています。これは、「我、天と地とを満たす」と書かれているように、すべての人が信じるべきことです。

しかし、クリエーターは、選択の余地を与えるために隠蔽を設けられました。それゆえ、私たちはクリエーターを見ることができません。そうして、そして信仰の余地が生じました。クリエーターが「すべての世界を満たし、すべての世界を取り囲んでおられる」と信じるための余地です。

人がトーラーとミツヴォット(戒律)に従事し、選択という戒律を守った後、クリエーターはその人に自らを顕されます。そして、そのとき人は、クリエーターこそが世界を支配していることを見るのです。

したがってそのとき、人は自分を支配する王を立てることになります。すなわち、人はクリエーターが全世界を支配していることを感じ、これを、人がクリエーターを自らの上に王とすると呼びます。そのような感覚に至っていない限り、クリエーターの王権は隠されています。これが、私たちが「その日には、ハヴァヤ(主/クリエーター)は一つとなり、その御名(みな)もまた一つとなる」と言う理由です。すなわち、その王権の栄光が私たちの上に顕れるという意味なのです。

 

10. 『シャマティ』第57番「彼をその御心(みこころ)にかなうものとして捧げよ」(バール・ハスラム)

私たちは、上において欲求が生じるように目覚めさせ、それによって下へと影響を与える必要があります。

私たちの側に欲求があるだけではまだ十分ではありません。与える者の側にも善き欲求が存在しなければならないのです。上には被造物を善に施そうとする欲求が常に存在しているとはいえ、クリエーターはなおも、私たちの欲求が目覚めて、クリエーター自身の欲求を呼び起こすのを待っておられます。

言い換えれば、もし私たちがクリエーターの欲求を呼び起こすことができないなら、それは、受け取る側の欲求がまだ完全ではないというしるしなのです。