2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン1「デヴェクート(結合/内的交わり)に不可欠な条件としてのテン」のテキストです。
レッスン教材として、ラバシュの記事「十人未満の会衆というものはない(1986年の記事 第28番)とレッスン準備のための追加教材(抜粋)との2種類があります。
※2026年1月31日更新
レッスン1「デヴェクート(結合/内的交わり)のための条件としてのテン」
レッスン教材:十人未満の会衆というものはない(ラバシュによる1986年の記事 第28番
レッスン1の準備ための追加教材(抜粋)
1.「社会の目的 その2」(ラバシュによる1984年の記事 第1番 第2部)
私たちに必要なのは、「邪悪」と呼ばれる受け取りの意志を無化するよう皆が取り組める社会、そのための大きな力を持つ社会です。なぜなら、邪悪さは人が創造された目的に到達することを阻むからです。
そのため、社会は、その目的を達成するよう満場一致で同意する個人により構成されなければなりません。そうすれば、全員が一つになり、一体化した大きな力となって、自らに対して戦うことができるようになります。こうして、各自が目的を達成しようとする大きな欲求に基礎を置くことになるのです。
互いに統合するためには、一人ひとりが他者の前で自分を無化するべきです。無化は、それぞれが友の欠点ではなく、長所を見ることで可能となります。しかし、自分が友より少しでも優れていると思う者は、もはや皆と一体になれません。
2.『マオール・ヴァシェメシュ』エケブ章
知られているように、いかなるテン(十人)にもシェヒナ(神性)が宿ります。それは完全な段階です。完全な段階には、頭と手、脚、踵があります。したがって、各人が社会の中で自分自身を無と見なすとき、その人は自分を社会に対する踵とし、他の人たちを頭や胴体といった、より上位の器官として見ることになります。
各人がこのように自分自身を考えると、自らのために豊かさの門と、この世にあるあらゆる潤いを開かせます。そして最も重要なのは、彼ら全員の中で、最も「無」に近い識別をより深く捉えることのできる義なる人です。その者を通して、すべての豊かさが流れ込むのです。
3.「友の集いにおいて何を求めるべきか」(ラバシュによる1988年の記事 第30番)
友人たちは何よりもまず、クリエーターの崇高さについて共に語るべきです。なぜなら、人が想定するクリエーターの壮大さの度合いに応じて、その分だけ人は自然にクリエーターの前で自分を無化するからです。(中略)
このように、クリエーターの崇高さについての友人たちの語らいは、クリエーターの前で自分を無にしたいという欲求と切望を呼び覚まします。なぜなら、人はクリエーターと結びつきたいという憧れと切望を感じ始めるからです。
また、友人たちがクリエーターの重要性と崇高さをどれだけ評価できたとしても、それでもなお、理性を超えて進まなければならないことを忘れてはなりません。すなわち、クリエーターは人が理性の内で描くことのできるクリエーターの崇高さよりも、さらに高い存在であるということです。
私たちは、クリエーターが善にして善をなすという摂理によって世界を導いておられることを、理性を超えて信じなければなりません。そして、クリエーターが人にとって良いことのみを望んでおられると信じるならば、それは人をしてクリエーターを愛するように導き、ついには「あなたは心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という状態に報われます。そして、これこそが人が友人たちから受け取らなければならないものなのです。
4. 「ミニヤン(会堂における十人)について」(ラバシュによる1988年の記事 第251番)
賢者たちが「あなたがたは『人(アダム)』と呼ばれるのであって、諸国の民はそうではない」と言ったのは、諸国の民の目的は自分のために受け取ることだけにあるからです。
これは、「クリエーターが会堂に来られても、そこに十人がいない」という言葉の意味です。すなわち、「十」という性質、すなわちシェヒナのために祈る者がいない、ということです。シェヒナがその流刑(追放)の状態から上昇するためには、与える欲求に携わる必要があり、与える欲求に携わることによって、人はシェヒナを塵の中から引き上げます。しかし、各人が自分個人の必要だけを気にかけているとき、クリエーターは怒ります。
彼はまた、次の聖句を証拠として挙げています。「なぜわたしが来たのに、人がいないのか」。これは、「人」という性質に属する必要を顧みず、「獣」という性質に属する必要を満たすことだけを気にかけている、という意味です。それゆえ、人は常に、自分が誰のために時間を費やし、誰のために努力しているのかを、自らに問い返すべきです。なぜなら、人は共同体の必要だけを気にかけるべきだからです。
5.十人未満の会衆というものはない (ラバシュによる1986年の記事 第28番)
「十人いるところには、シェキナーが宿ります」。
知られているように、マルフットは「第十」と呼ばれます。また、受け取る器もまた、セフィラ・マルフットと呼ばれ、それは第十のセフィラであり、上位の豊かさを受け取る存在です。これは「受け取りの欲求」と呼ばれ、すべての被造物はそこから派生しています。
このため、「共同体は十人未満では成立しない」のです。なぜなら、すべての物質的な枝は、上位のスピリチュアル的な根から引き出されているからです。そして、「十個のセフィロトを伴わない光は存在しない」という原則に従い、物質界においても、上位の段階に倣って、重要なものとして認められる会衆とは、十人がそろって初めて成立するのです。
6.「理性を超えるということ」(ラバシュによる1986年の記事 第21番)
友人たちとのデヴェクート(結合/内的交わり)によって、新しい性質を得ることができます。その性質によって、人はクリエーターとのデヴェクートに到達する資格を得ます。そして、これらすべては、人が友人たちの長所を見ている間にのみ語ることができます。そのときには、人は友人たちの行いから学ぶべきだと言うのが適切です。
しかし、自分のほうが友人たちよりも優れている、あるいはより適格であると見えるときには、友人たちから受け取れるものは何もありません。
このため、邪悪な性向が来て友人たちの低さを見せるときには、理性を超えて進まなければならないと言われています。しかし、理性の内において友人たちが自分よりも高い段階にいると見ることができるなら、それに越したことはないのは確かであり、そうであれば、より良く、より成功するでしょう。
このことから、ラビ・エリメレフが私たちのために記した祈り、「私たちの心が友の良い点を見るようにし、彼らの欠点を見ませんように」という言葉を理解することができます。
7.『マオール・ヴァシェメシュ』ヴァイェヒ章
集いの本質は、皆が一つの統合の中に在り、ただ一つの目的――クリエーターを見いだすこと――のみを求めることです。いかなるテンにもシェヒナ(神性)が宿ります。明らかに、十人より多ければ多いほど、シェヒナの顕現はいっそう大きくなります。
それゆえ、各人は友と共に集い、友からクリエーターの摂理について、またいかにしてクリエーターを見いだすかについての言葉を聞くために、友のもとへ来るべきです。友の前で自分を無にし、友もまた同じようにすべきであり、皆がそのように行うべきです。
そのとき、この意図をもって集いがなされ、クリエーターが彼らに近づき、彼らと共におられるならば、大いなる憐れみと善、慈愛が明かされ、イスラエルの集いの上に注がれるでしょう。
8.手紙 第40番(ラバシュ)
最強の者であっても、心と心の摩擦によって、各自が自らの心の壁から温もりを引き出します。その温もりが愛の火花に火をつけ、やがて愛の衣が形づくられます。すると、二人は一つの毛布で包まれます。デヴェクート(結合/内的交わり)が二つを一つに結ぶことは、よく知られているとおりです。
そして、人が友の愛を感じ始めると、直ちに歓びと善がその内に目覚め始めます。なぜなら、目新しさは人を喜ばせる、という法則があるからです。友が自分を愛しているということは、その人にとって新しい事柄です。なぜなら、これまでは、常に誰もが自分自身の幸福や健康だけを気にかけているのだと思っていたからです。しかし、友が自分を気にかけていることを見つけたその瞬間、計り知れない喜びが彼の内に呼び起こされ、もはや自分自身のことを顧みることができなくなるのです。
9.『デゲル・マハネ・エフライム』ヴァエトハナン章
「クリエーターは一であり、イスラエルもまた一である」と書かれています。したがって、イスラエルはクリエーターと結びついています。なぜなら、「一なるもの」には「一なるもの」が結びつくのがふさわしいからです。では、それはいつなのでしょうか。それは、イスラエルが完全な統合の中で束ねられ、互いに結び合っているときです。そのとき、イスラエルは一と見なされ、クリエーターがイスラエルの上におられます。なぜなら、クリエーターは一だからです。
しかし、イスラエルの心が分かれ、互いに離れているときには、「一なるもの」に結びつくことはできず、クリエーターがイスラエルの上にいることはありません。むしろ、別の神がイスラエルの上にあるのです。
これは、「あなたがたの神、主に結びついているあなたがたは、皆、生きている」という聖句にほのめかされています。すなわち、あなたがたが互いに結びつき、一致しているとき、「あなたがたは皆、生きている」ということです。彼らが一つの一致の中にあるとき、「一なるもの」には「一なるもの」が結びつくのにふさわしく、そのとき、一なるクリエーターがイスラエルの上におられるのです。
10 .ゾハール完成に際しての講話(バール・ハスラム)
すなわち、クリエーターがご自身について―― 「自分は存在しているか」、「被造物を顧みているか」――といった疑問をいっさい考えられないように、形態の同等性を求める者もまた、これらのことを考えてはなりません。なぜなら、クリエーターにはそのような思考がないことが明白であるため、もし人がそのように思うなら、これほど大きな形態の不一致はないからです。
したがって、そのように思う者は確実にクリエーターから分離しているため、決して形態の同等性に至ることができません。
これこそが、賢者たちの言った「あなたのすべての行いをクリエーターのためにせよ」という教えの意味になります。クリエーターのためとは、クリエーターとのデヴェクート(結合/内的交わり)のためということです。この目的――クリエーターとのデヴェクート――に至らないことは、いかなることもしてはなりません。つまり、あなたが行うことすべてを他者に授与し、他者に益することのために行わなければならない、ということです。
このようにして、あなたはクリエーターとの形態の同等性に至ることになります。すなわち、クリエーターが行うことがすべて授与であり、他者に益するために行うように、あなたもまた、あなたが行うことすべてをただ授与すること、他者に益するために行うようになるのです。これこそが完全なデヴェクートです。