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カバラ・ライブラリー・ホーム / ブネイ・バルーフ / レッスン6「テン(十人)における契約の締結」

2026年2月のワールド・カバラ・コンベンション、レッスン6「テン(十人)における契約の締結」のテキストです。

レッスン教材として、ラバシュの記事「クリエーターへの務めにおいて契約を結ぶとは」(1987年の記事 第31番)とレッスン準備のための追加教材(抜粋)の2種類があります。
※2026年2月15日更新

レッスン6「テン(十人)における契約の締結」

レッスン教材「クリエーターへの務めにおいて契約を結ぶとは」1987年の記事 第31番(ラバシュ)


レッスン2の準備ための追加教材(抜粋)

1. ラバシュによる1987年の記事 第3番「全イスラエルには来たるべき世界の分け前がある」

「もし二人の人が、互いに愛し合うほうがよいと理解しているなら、なぜ契約を結ぶ必要があるのか。契約書に署名するかのような行為が、なぜ助けとなるのか。それは私たちに何を与えるのか」。

そこで彼は言いました。「契約を結ぶというのは、将来、二人の間に分離をもたらすかもしれない何かが起こり得るからである。そこでいま、契約を結ぶ。すなわち、いまは二人の間に愛と同等性があると理解しているが、この契約は存続のためのものであり、後に分離をもたらすようなことが起こったとしても、いまなしているこの結びつきは永久的なものとなる」。

したがって、もし後に彼らを分離するようなことが起こったなら、それぞれが理性を超えて歩むべきだと言わなければなりません。すなわち、自分の理性の中で見ていることには注意を払わず、理性を超えて歩むのです。このようにしてのみ契約は保たれ、彼らの間に分離が生じません。


2. 「人は常に家の梁を売るべきである」ラバシュによる1984年の記事 第9番

「もし二人が互いに愛し合っているなら、当然ながら互いに善を行います。そして、何らかの理由で愛が薄れ、彼らの間に愛がなくなれば、互いに善を行わなくなるのは自然なことです。それでは、二人の間の契約は何の役立つのでしょうか」。

答えはこうです。

彼らが結ぶ契約は現時点のためではありません。いま、愛を感じられている時には、契約は必要ありません。そうではなく、契約は将来のために意図的に結ばれます。すなわち、しばらく時が経つと、いまのように愛を感じなくなる可能性があります。その時にも以前と同じ関係を保つためです。そのために契約があります。

私たち(グループ)に関しても同様です。たとえ、グループが設立された当初のような愛を感じていなくても、それでも各人は自分の理性に打ち勝ち、それを超えて歩まなければなりません。そうすることによって、すべてが是正されます。そして、各人は友を善の側(好意的)に裁くのです。


3. 「あなたのすべての供え物に塩を供えよ」『シャマティ』第76番 バール・ハスラム

二人が互いに善を行い、確かに二人の間に愛が働いている間は、契約を結ぶ必要がありません。しかし同時に、まさに愛がある時にこそ契約を結ぶのが世の常です。

彼は言いました。契約を結ぶのは将来のためです。すなわち、今合意を交わすのは、後にそれぞれが「自分の心は友に対して完全ではない」と思うような状態が訪れた場合のためです。それでも、その時、彼らに合意があれば、かつて結んだ契約を思い起こし、その状態にあっても以前の愛を続けていくことができるのです。

これが「あなたのすべての供え物に塩を供えよ」という意味です。すなわち、クリエーターへの務めにおけるすべての接近(Krevut)は、「王の契約」の上になければならないのです。


4. 「塩の契約」ラバシュによる記事 第738番

契約とは理性に反するものです。なぜなら、一方が友から善いものを受け取っている時にこそ、互いに契約を結ぶ必要があるからです。

契約が必要なのは、それぞれが相手に対して主張や訴えを持ち、怒りや分離の状態になり得る時です。その時、彼らが結んだ契約は、愛と統合を保つことを義務づけます。これは原則であり、誰かに相手を傷つけたいという欲求や衝動が生じた時には、結んだ契約を思い起こすという助言があるのです。

それが彼らに愛と平和を保つことを義務づけます。これが「あなたのすべての供え物に塩を供えよ」という意味であり、クリエーターへの務めにおけるすべての接近は、塩の契約によってでなければならないのです。これがすべての基礎となります。


 5. 「あなたがたは今日立っている その2」ラバシュによる記事 第471番

人がクリエーターの愛を感じるとき、他の愛を捨ててクリエーターの愛を選ぶべきだと理解します。しかしその後、その目覚めの時が去り、クリエーターの愛を感じなくなると、以前捨てると決めた他の愛に戻ろうとします。

そのとき人は契約を守らなければなりません。すなわち、クリエーターの愛を感じていた時と同じ秩序、同じやり方で歩まなければなりません。たとえいまは何の感覚もなくてもです。その時の仕事は強制という道によって行われなければなりません。すなわち、以前結んだ契約に自らを服従させるのです。


6.「人は常に家の梁を売るべきである」ラバシュによる1984年の記事 第9番

ある特定の人々によって設立された社会(グループ)があるなら、その創立時には必ずこの結びつきを築こうと望んだ者がいたはずです。そのため、その人は、これらの人々が互いに適しているかどうかを選び分けました。すなわち、各人の中に他者への愛の火花がありましたが、その火花は、各人の中に愛の光を燃え上がらせるには十分ではありませんでした。そこで彼らは共に結びつくことによって、すべての火花が一つの大きな炎になることに合意したのです。

したがっていま、たとえ互いの欠点を探しても、克服して言わなければなりません。社会(グループ)が設立された時、皆が他者への愛の道を歩むべきだと一致していたように、いまもまた同じであると。そして皆が互いを善の側(好意的)に裁くなら、すべての火花は再び燃え上がり、一つの大きな炎となるのです。


7.手紙 第7番(ラバシュ)

あなたがたは友愛を増やしていかなければなりません。恒常的な愛に到達することは、(デヴェクート(結合)によってのみ可能です。すなわち、強い結びつきで互いに結ばれることです。それは、内なる魂を包んでいる衣を脱ぎ捨てようと努める時にのみ可能です。その衣とは自己愛であり、この衣だけが二つの点を分離しているからです。

しかし真っ直ぐな道を歩むなら、互いに矛盾する二本の線と見なされていた二点は、二本を包含する中間線へと至ります。戦いの体系に立っていると感じるとき、それぞれが友の助けを必要としていることを知り、感じます。友なしには自らの力も弱まることを。命を救わねばならないと理解するとき、人は自分の身体のことを忘れ、二人は敵をいかに打ち負かすかという一つの考えで結ばれるのです。


8.「働きにおける平和とは何か」1989年の記事 第34番(ラバシュ)

「闇の中からの光の優位」と書かれています。すなわち、光への欠乏と必要がなければ光を受けることはできません。

人が自分の中の諸国民(異邦人の性質)がクリエーターに反対しているのを見て、自分の内なる「イスラエルを憎む者」を耐えられないとき、その人は神に嫉妬し、どんな下降も顧みず、できる限りのことを行い、クリエーターに叫ぶのです。内なる悪しき者たちに打ち勝つ助けを与えてくださいと。

その人が克服して戦いから逃げないとき、クリエーターはその人に契約を与えます。すなわち、その人と契約を結び、その人とクリエーターとの間に平和があるようにするのです。それはクリエーターからの贈り物によって、すなわち与える器を受け取ることによってです。これを契約を結ぶといいます。


9. グループ規約(ラマハル)

これは、署名した友人たちが自ら受け入れた契約の言葉です。すなわち、クリエーターとそのシェヒナの一致のために、皆が一人の人のようになる、ということです。クリエーターへの務めを行い、この務めにおいて各人が全体のように数えられる、ということです。

彼らはこの学びを、いかなる報酬を受け取るためでもなく、いかなる期待や他の意図のためでもなく、ただ聖なるシェヒナの是正とイスラエル全体の是正のため、クリエーターに喜びを与えるために行うと受け入れました。

彼らはこれによっていかなる報酬も受けません。むしろ、さらにこのような修正を行うに値するようになること、クリエーターとそのシェヒナを一致させ、イスラエル全体を修正することだけを求めます。この学びが誰か一人の個人的是正、たとえ罪の贖いであっても、そのためと見なされてはなりません。そうではなく、完全に聖なるシェヒナとイスラエル全体の是正のためだけを意図とします。


10.  ゾハール『ゾハール・フォー・オール』「アハレイ・モト(死の後)」『見よ、なんと良く、なんと快いことか』第66項

ここにいる汝ら、友人たちよ、これまで愛と親愛のうちにあったように、これからも互いに離れてはなりません。クリエーターが汝らと共に喜び、汝らに平和を宣言し、汝らの功績によって世界に平和が見いだされるまで。これは「わが兄弟、わが友のために、汝らのうちに平和を語ろう」とある通りです。