原典からの抜粋
(編集中)
ワールド・カバラ・コンベンション - 「『クリエーター以外に他はあらず』につながる」 - 2025年5月
レッスン1:「クリエーター以外に他はあらず」
原典からの抜粋
1. シャマティ記事第1番「クリエーター以外に他はあらず」(バール・ハスラム)
「クリエーター以外に他はあらず」と記されています。これは、この世界にはクリエーター(創造主)に逆らって事をなす力を持つものが一切存在しないことを意味します。人がこの世界で、上層の御国(みくに)を否定するものを目にするのは、それがクリエーターの意志だからです。
これは、「左で拒絶し、右で引き寄せる」と呼ばれる是正です。左での拒絶が是正とみなされるということです。つまり、この世界には初めから、人を正しい道から逸らすことを意図するものが存在し、それによって人がケドゥーシャ(神聖さ)から遠ざけられるという意味です。
拒絶することで、人はクリエーターの助けを完全に必要とし、それを望むようになるという恩恵にあずかります。そうしないと、途方に暮れ、クリエーターへの務めで前進はおろか、後退してしまうことに気づくからです。つまり、人は、ロー・リシュマ(彼女のためではない)においてさえ、トーラーとミツヴォット(戒律)を遵守する力がありません。理性を超え、すべての障害を真に克服することによって、トーラーとミツヴォットを遵守できるようになります。しかし、常に理性を超えて克服する力があるわけではなく、遵守できなければ、神が禁じるクリエーターの道からの逸脱を余儀なくされます。ロー・リシュマからさえも逸脱せざるを得なくなるのです。
その者は、常に粉砕したものが完全なものよりも多いと感じています。つまり、上昇より下降がはるかに多く、その状態に終わりが見えず、永遠に神聖さの外にとどまるだろうと感じているのです。なぜなら、理性を超えて克服しない限り、ほんの少しでさえトーラーとミツヴォットを遵守することは難しいからです。しかし、常に克服できるわけではありません。では、一体どうすればよいのでしょうか?
そうして、クリエーター以外には誰も自分を助けられないという結論に至り、これが、クリエーターに対して心からの訴えを生じさせます。つまり、自分の目と心を開き、クリエーターとの永遠のデヴェクート(内的交わり)に近づけてくださいと心から願うのです。このことから、これまでの拒絶はすべてクリエーターからであったということがわかります。
つまり、克服する力がなかったのは、その人の落ち度ではなく、むしろ、クリエーターのかたわらに近づきたいと真に願う人々が、小さな満足に甘んじず、無知な子どものままでいさせないようにするためだったのです。そうして、上層からの助けが与えられます。つまり、「神よ、感謝します。私にはトーラーとミツヴォットがあり、善行を積んでいます。これ以上、私に何かする必要はありますか?」と満足させないようにするのです。
これは、人に真の欲求がある場合に限り、上層から助けが与えられます。そして、現状では自分に落ち度があることが常に示されます。正確に言えば、この務めに反する考え方や見方が送られてくるのです。これは、自分がクリエーターと完全に結びついていないことに気づくためです。克服すればするほど、他の人々はクリエーターと完全な結びつきがあるように感じているのに、自分は神聖さから遠ざかっていると、常に思うようになります。
一方で、その者はいつも不平や要求を抱え、クリエーターの振る舞い、つまりクリエーターが自分にすることを正当化できません。これがその人に痛みをもたらします。なぜ自分はクリエーターと完全に結びついていないのか? という痛みです。そして、ついに自分には神聖さがまったくないと感じるようになります。
時折、上層からの目覚めを受け、一時的に元気づけられたとしても、すぐさま卑しい状態に落とされます。しかし、これが、クリエーターだけが自分を助けることができ、自分を真に近づけてくれるという認識をもたらすのです。
人は常にクリエーターと結びつき、内的に交わるよう努めなければなりません。つまり、すべての思考をクリエーターに向けるということです。たとえ、それ以上落ちようがない最悪の状態であっても、クリエーターの領域から離れるべきではありません。別の権威ある力が存在し、自分に善や悪をもたらし、ケドゥーシャ(神聖さ)に入ることを妨げると考えてはいけないのです。
つまり、人に善を積ませ、クリエーターの道を歩むことを許さないシトラ・アフラ(Sitra Achra:向こう側)の力があると考えてはいけないということです。そうではなく、すべてがクリエーターによってなされると理解すべきです。
バール・シュムトブは、「世界に別の力、すなわちクリポット(Klipot: 殻)と呼ばれる力が存在すると言う者は、「他の神々に仕えている」状態だと述べています。それは、必ずしも罪とされる異端の考えを持っているからではなく、クリエーターとは別の権威や力が存在すると考えるなら、罪を犯していることになります。
さらに、人は自分自身に権威があると言う者、つまり昨日、自分はクリエーターの道に従いたくなかったと言う者も、異端の罪を犯しているとされます。クリエーターだけが世界の支配者であるとは信じていないことになるからです。
しかし、罪を犯してしまったのなら、その罪を本当に悔い改め、反省しなければなりません。ただし、この際もまた、痛みと悲しみを正しい順序で感じる必要があります。つまり、罪を犯した原因をどこに求めるかということが重要で、その点について悔い改めるべきということです。
その時は、悔い改めて「私が罪を犯したのは、クリエーターが私を神聖な場から不浄の場、つまり汚物のある厠(かわや)に投げ込んだからです」と言うべきです。つまり、クリエーターは、不浄の場で楽しみ、悪臭を吸いたいという欲求や切望を人に与えたということです。
(書物には、人は豚に転生することもある、と書いてありますね。これを解釈するなら、人がかつて屑だと決めたものから活力を得たいという欲求や切望を受け取り、そこから栄養を得ようとする、と解釈すべきです)。
また、いま自分が上昇状態にあり、クリエーターの務めに何らかのよい味わいを感じる時も、「いま私は、クリエーターの僕であることに価値があることを理解している」と言ってはなりません。そうではなく、クリエーターが自分に好意を寄せているのだと知るべきです。つまり、クリエーターがその人を近くに引き寄せたために、クリエーターの務めに良い味わいを感じているということです。そして、決してケドゥーシャ(神聖)の領域から離れないように注意し、クリエーターの他に私たちを動かしている者がいると言わないようにすべきです。
(しかし、クリエーターに好意を寄せられるか、もしくはその反対になるかは、その人自身ではなく、クリエーター次第です。そして、外に向けられた理性では、なぜいまクリエーターが自分に好意を寄せ、その後そうではなくなるかを理解できません)。
同様に、クリエーターが自分を近くに引き寄せてくれないと嘆く時も、それが自分のための嘆き、つまりクリエーターから離れていることを嘆くことのないよう気をつけるべきです。なぜなら、離れているのは、それによって自分が恩恵を受け取る者となるためだからです。何かを受け取るレシーバーというのは離れているものです。さらに、シェヒナ(神性)から追放されていることを嘆くべきです。つまり、自分がシェヒナに悲しみを与えていることを理解すべきなのです。
人はそれを、自分の小さな臓器に痛みがあるかのように想像すべきです。想像でも、主に心や精神に痛みを感じます。心と精神は人のすべてです。当然ながら、臓器単体が感じる痛みと、全身が感じる痛みは比較になりません。
人がクリエーターから遠ざけられたと感じるときの痛みについても同様です。シェヒナはイスラエルに共通の魂であり、人はその中の一つの臓器にすぎません。そのため、シェヒナが自らの臓器を引き離され、養うことができなくなったときに感じるシェヒナの悲痛は、個々の痛みを超えた、より深い嘆きとなります。個々の臓器が感じる痛みは、全体の痛みの感覚とは異なるからです。
(これは、賢者たちが「『人が悔いる時、シェヒナはなんと言うのか?』『それは私の頭より軽い』」と述べた通りであると考えるべきです)。遠ざけられたことの悲しみを自分の嘆きにしなければ、自分のために受け取りたいという欲求の罠、すなわちケドゥーシャから切り離される罠に陥ることを防ぐことができます。
人が幾分かケドゥーシャに近づいたと感じ、クリエーターに好意を寄せられた喜びがある時にも、同じことが当てはまります。その時も、この喜びの主な理由は、シェヒナがその臓器を近くに引き寄せることができ、それを外に追いやる必要がないために、いま上層の喜びがあると言わなければならないのです。
そして、人はシェヒナを喜ばすことで報いを受け、そこから喜びを得ます。これは、ある部分に喜びがあっても、それは全体の喜びの一部でしかないという上述の考え方と一致します。このように考えることで、その者は個を失い、自分の利益のために受け取ろうとする意志であるシトラ・アフラの罠に陥らずにすみます。
受け取りの意志は必要不可欠です。これが、人間の全てであるからです。人にある受け取りの意志以外のものは、被造物ではなく、クリエーターに帰属します。しかし、喜びを受け取る意志は、授与に尽くすよう是正されなければなりません。
つまり、受け取りの意志が得る喜びや幸せには、被造物がそれらを感じることで上層に満足をもたらすという目的があるべきということです。これが創造の目的であり、主(クリエーター)の被造物に善を行うことになります。これは、上層のシェヒナの喜びと呼ばれています。
このことから、人はどうしたら上層に満足をもたらせるかについて、助言を求めなければなりません。人が喜びを得れば、上層に満足があるのは明らかです。そのため、人は常に王の宮殿にいたい、王の宝物で遊ぶ能力を持ちたいと切望します。そして、確かにこれが上層に満足をもたらします。結局のところ、人の願いや望みはすべて、クリエーターのためだけに向けられるべきなのです。
2. 「その御名の意味」(バール・ハスラム)より
さあ来て、本当の叡智を学びなさい。このすべてのもつれの理由を。
クリエーター自身には、いかなる思考も認識も存在しません。その理由は単純です。なぜなら、人の心に浮かぶすべての思考は、まさにクリエーターからの働きかけそのものだからです。
つまり、人が「この思考はどこかからやってきた」とか「自分の中で今生まれた」と感じるようなこは偽りであり、最大級の誤りなのです。
実際には、ほんのわずかなものであっても、あらゆる思考はクリエーターが人の心に送っているものであり、それが人間や獣、すべての生きとし生けるものが「動く力」となっています。
 すなわち、クリエーターがある存在を動かそうと望むとき、思考をひとつ送ることでその存在を動かすのです。そしてその思考が、その存在の器に応じて、それを動かします。
これはちょうど、誰かが地面に雨を降らせるようなものです。しかし地面には、それを誰が降らせたのかを感じる力はありません。同じように、人もまた、その思考がやってくる前に、それを誰が送ったかを感じることはまったくできないのです。そして一度その思考が人の「想像の領域」に入ってくると、それはまるで自分自身の一部であるかのように感じられるようになります。
このことから、私たちにはクリエーターについての思考も認識も存在し得ないということが理解できるでしょう。なぜなら、クリエーターは、私たちがご自身を把握できるような思考を送ろうとは望んでおられないからです。
けれども、クリエーターは私たちに「思考の行進(プロセス)」を整えてくれています。そして、この思考のプロセス全体を経ることによってのみ、最終的に人はクリエーターに真に到達するのです。
3. 『10個のセフィロトの研究(タルムード・エセッル・セフィロト)』「内観」第1章 第8節(バール・ハスラム)より
この全現実――上層にあるものも下層にあるものもすべて――は、最終是正の終わりに完成された状態で、一つの思考によって発せられ、創造されました。この「ただ一つの思考」こそが、あらゆる作用をほどこしているものであり、すべての働きの本質であり、すべての苦労の目的であり、その本質なのです。そして、まさにそれ自体が完全されたものであり、望まれるべき報酬そのものなのです。
4. ラバシュ の書簡 第76番(ラバシュ)より
「全地はその栄光に満ちている」と知られています。これは、すべての人が信じるべきことであり、聖書にも「我、天地を満たす」と書かれています。しかしながら、クリエーター(創造主)は御自身を隠されました。それは、私たちがクリエーターを見ることができないようにすることで、「選択の余地」を与えるためです。そして、その結果として生まれるのが「信仰の余地」です。すなわち、クリエーターが「全世界を満たし、包み込んでいる」と信じることが必要になるのです。そして、人がトーラーとミツヴォット(戒律)に取り組み、戒律を守る選択を貫くようになると、クリエーターはその人に御自身を明かしてくれます。そのとき、人はクリエーターがこの世界の支配者であることを実感するようになるのです。
このようにして、その人は自らの上に支配する王を立てることになります。つまり、その人はクリエーターが世界の支配者であると感じるようになるのです。そして、これがクリエーターを自らの王とするという意味になります。このような感覚に至るまでは、クリエーターの王としての在り方は隠されたままなのです。
5. 『シャマティ』第67番「悪を離れよ」(バール・ハスラム)より
人間の肉体を除いて、この現実にはクリエーターしか存在しません。
なぜなら、「被造物」と呼ばれる人間の本質とは、あくまで自分自身にとってだけそう見えるということだからである。クリエーターは、人間に「自分はクリエーターから離された独立した存在だ」と感じさせることを望んでいます。しかし、それ以外のすべては、まさに「全地はその栄光で満ちている」のです。
6. 『皆のためのゾハール』レフ・レハ「アブラハムがエジプトに来たとき」第116項より
この世界に存在するすべてのものは、クリエーターに由来します。なぜなら、この世で起こるあらゆることを行うのは、クリエーターただひとりだからです。過去に起きたすべてのこと、現在まさに起きていること、未来に起きるだろうこと──それらすべてを、クリエーターが行っています。そして、クリエーターは、起こるすべてのことを初めから終わりまで知っておられます。「初めから終わりを告げる」と記されているように。クリエーターは初めにそれを行い、時を経て、それを繰り返し、完全なかたちで成し遂げます。
7. 手紙 第18番(バール・ハスラム)より
人には、現在においても、未来においても、その瞬間をすべて、偉大なる御名に委ね、捧げるよう向かっていく以外に選択肢がありません。もしある一瞬を、「困難だから」という理由でクリエーターを拒むならば、その人は自らの愚かさをさらけ出すことになります。なぜなら、そのような人にとっては、すべての世界も、すべての時も、もはや無価値となってしまうからです。そこには、時と状況がどう変化しようと、主の御顔の光が宿っていません。たとえ人のすることがそれによって変わるとしても。だからこそ、私たちの聖なる先祖たちの功績によって、「理性を超えた信仰と確信」が私たちに用意されています。それは、最も厳しい時にも、疲れもためらいもなく、自然に用いることのできる力なのです。
8. 『ゾハールの書への序文』第13節(バール・ハスラム)より
魂を創造しようという思考そのものによって、すべてが完成されました。なぜなら、クリエーターには、私たちのような行為が必要なく、思考だけで完全な創造がなされるからです。その瞬間、創造される定めにすべての魂とすべての世界が現れました。それらは、クリエーターが魂たちのために用意したあらゆる喜びや満たし、やさしさであふれていました。それは、魂が最終的な是正の終わりに受け取るべき完全な完成形であり、魂の中の「受け取りの意志」が完全に是正され、純粋な「授与の意志」へと変化し、発する者(クリエーター)と完全に形態が一致した状態です。