2026年10月18日更新
24. 私たちにとって最も欠けているもの
私たちにとって最も欠けているもの、そしてそれが欠けているために務めにいそしむ燃料がない原因となってるものは、目標に対する重要性が欠けていることです。つまり、私たちは、自分たちが誰に授与しているのかを知るために、自分たちの務めをどのように評価すればよいのかが分かっていないのです。また、クリエーターの偉大さについての知識も欠けています。私たちにはクリエーターの偉大さを理解できるものが何もないため、王に仕える特権を得ていることが、どれほど幸せなことなのかを知ることができません。
これは『ゾハール』の言葉では、「塵の中のシェヒナ(神性)」と呼ばれています。つまり、私たちにとってクリエーターに授与することは、塵と同じくらいの重要性しか持たないということです。その結果、私たちには務めにいそしむための燃料がありません。なぜなら、喜びがなければ、務めに取り組むための力もないからです。
自己愛が輝いているとき、肉体はそこから活力を得ます。しかし、授与の務めにおいては、肉体がそこに喜びを味わうことはありません。そのため、肉体は当然、「その重みに耐えきれず、崩れ落ちてしまう」ことになります。
これに対して、自分が重要な王に仕えていると感じるなら、王の重要性に応じて、王に仕えることから得られる喜びと楽しみが大きくなります。したがって、そのときにはすでに燃料があり、毎回、前進する力が得られているのです。なぜなら、自分が重要な王に仕えていると感じているからです。
そして、自分が誰に授与しているのかを知り、それを感じるようになると、自己愛を意図して務めるために持っていた力と同程度の力を、今度は授与するために務めることにも持てるようになります。なぜなら、重要な人物に授与する人は、その人物から受け取っていると見なされるからです。肉体には、見返りを得るために務める力があるのですから、同様に、重要な王に授与することからも喜びを得られるのです。
これによって、『十のセフィロトの研究への序文』に書かれていることが理解できます。それは、「彼女が与え、彼が重要な人物であるなら、彼女は彼から受け取る喜びによって聖別される」ということです。ここで私たちは、新たなことを目にします。それは、重要な人物への授与は、法的な規定に照らせば、実際に受け取ることに等しいということです。もっとも、そこで著者が引用しているのは、授与するために受け取るという事柄に関する、キドゥシン(婚姻の聖別)についての記述です。その場合、受け取ることは授与と呼ばれます。
このことから、コインのもう一方の面、すなわち授与が受け取りと呼ばれることも理解できます。つまり、人はすでに務めにいそしむための燃料を持っているのです。重要な人物に授与するなら、それはあたかもその人物から受け取っているかのようだからです。そのため、すでに務めにいそしむ力があるのです。
ここから分かるのは、私たちに欠けているのは、ただクリエーターの偉大さを信じることだけだということです。そうすれば、授与するために務める力を得られるでしょう。