ヘブルータ - レッスン22後 - 上位世界の構造 - パート2

ヘブルータ - レッスン22後 - 上位世界の構造 - パート2

レッスンの内容
教材

上の世界の構造

 


ラブ・Dr.マイケル・ライトマンによる学びへの意図の言葉 

ここでは、私たちの間で正された繋がりのシステムについて語られています――その中ですべての部分、腕、システムがどのように機能し、魂がこのシステムによってどのように正されるのかということです。

創造には二つの部分があります。一つは、修正を実行するために設けられた世界のシステムです。第二の部分は、もともと一つの魂だったものが多くの部分に分裂した壊れた魂のシステムであり、世界のシステムはこれらを目覚めさせて修正へと導かなければなりません。

エイン・ソフの光が世界のシステムを通して輝き、壊れた魂たちを修正に向けて目覚めさせ、彼らの修正を助けます。なぜなら、それは世界を通り抜け、隠蔽を経て降りてくるため、上なる光は魂に対して本来の姿とは正反対の形になります。したがって、それが魂に到達する時、それは様々な隠蔽と啓示の中で魂の中にさまざまな状態を呼び起こし、魂たちがその光に向かって進むことを可能にします。

私たちは、エイン・ソフの光が世界を通って輝き、魂たちを目覚めさせ、魂たちが再び「エイン・ソフのマルフート」と呼ばれる一つの魂へと再結合しようとする行動を始める様子を学んでいます。魂が繋がる度合いに応じて、彼らは世界の階層を昇り、世界は隠蔽から啓示へと変わります。魂たちは、世界との同等性にしたがい、毎回より高い段階で世界に組み込まれます。

世界のシステムは、魂からエイン・ソフの光を隠さなければなりません――それぞれの魂の分量、段階、性格、進歩に応じて。これらはすべて世界のシステムの中で行われます。壊れた魂のシステムの中で、魂たちが互いに繋がり合えば合うほど、正確に世界のシステムに適合していくのです。

創造の構造について、バアル・ハスラムや一般的なカバリストたちは、実際に魂自体に何が起きているかは説明しません。その代わり、主に、私たちを目覚めさせるために世界のシステムがどのように働いているかを説明します。そして、これによって私たちは自分自身を正すためにどのように振る舞うべきかがより明確になります。

 


 

これまでに見てきた主要な概念:

- 創造の思い: 

創造された存在に喜びを与えること――彼の豊かな寛大さに従って

- その本質: 私たちが到達できないもの

- 光(オール)と器(クリ): 創造された存在の中の「受け取る意志」は器(クリ)と呼ばれ、それが受け取る豊かさが光と呼ばれます。器は「欠如」であり、光は「充足」です。

- エイン・ソフの光: 制限の無い光――ソフが無い――受け取りに終わりが無い光


 

では、ラブ・Dr.マイケル・ライトマンによって説明された4段階のダイナミクスを復習しましょう

私たちが直面している全ての問題は、いかにして上から周囲の光(オール・マキーフ)を受け取り、それによって私たちの中に「与える意図」を生み出すかということです。

 

与える意図はビナの性質と呼ばれます。受け取り、楽しもうとする意図はマルフートの性質と呼ばれます。

それゆえ、創造者は被造物を創造し、それを最高の段階に導くため、被造物を創造する時、享受の欲求――第1段階(フェイズ1――ホフマー)――を創造し、それを満たします。そして充足の中にもご自身、つまり彼の感覚を置きます。こうして享受の欲求は、それを満たしている存在も感じ、その充足者――満たす根源――のようになろうとします。つまり、受け取るのではなく与えたいと思うのです。
 

したがって、光は器に作用し、それを満たし、その質を変えます。私たち自身では決して何もできません。つまり、私たちの中の欲求は光により生み出され、私たちは光によって満たされ、この欲求もまた光によって変化します。

第一段階では何が起きますか?

光によって、欲求が生み出されます――光に満たされたいという欲求。そして光はこの欲求を満たします。これが第一の段階、第一の部分、その上部です。

そしてその光の中に、ケテルの質が顕れます。

どのようにそれが起こるのか?光は外からやってきて、快楽で作用します――器に入り、快楽を与えます。するとその中に、ゼロ段階、ゼロの質が明らかになります。

このゼロ段階の内に創造者——すなわち光そのものの質が内在します。そしてここで徐々にご自身を顕します。まず第一の段階が顕れ、次に器に入ると、より高いゼロ段階が明らかになるのです。そして器は、それを満たしているものと常に同じになりたいと望み始めます。したがって、受け取る欲求の次の低い部分に、与えたいという欲求が顕れます。そしてこれは第2段階(ビナ)で実現されます。つまり、送り手が最初に顕れ、次にその根源が明らかになるのです。

同じことが第2の欲求にも起こります。その中でも与えたいという欲求が、与えたいという欲求の内部に顕れます。それは第一の段階から来ています(与えたいという欲求の内部に受け取りたいという欲求がある――上部)。つまり、まず下半分が明かされ、それからこの下半分の内部に上部が現れます。したがって、ビナは受け取る必要があることを理解し始めます——上半分が明らかになるのです。そしてこのように、ビナは「与えたいという欲求」と「受け取りたいという欲求」の二つの性質から成ります。最初の被造物は自身の性質と創造者の性質を含んでいます。

従って、第三の部分――ビナが与える意図を実現するために受け取りたいと願うとき、内部に第一第二の部分の混合が生まれます。これによって創造者とはどんな存在かを理解し始めます。そうすることで、創造者に似てくるのです。ビナにおいては、意図において創造者に同じになります。そして第三の部分――ゼーイール・アンピンでは、「行為」において創造者に同じになるのです。つまり、ビナは今何をするか?受け取ります。第一の欲求を取り、それを与えるために受け取るのです。ここで、第一の部分――ホフマー――と第二の部分――ビナ――が存在します。与えるために受け取る欲求を実現するのです。

そして、この行為――彼女が全くケテルのようになり、ゼロ段階またはケテルの性質のようになるこの行為――これが彼女の中に「創造者とはどういうものか」の理解を引き起こします。そしてそのため、彼女の中に「受け取りも与えもしたくない、そんなことはナンセンスだ、むしろ創造者と同じ地位に立ちたい、そのレベルに上がりたい」という欲求が生まれます。

最後の段階、マルフートは単に受け取って楽しみたいのではなく、受け取り、楽しみ、そして創造者と同等の地位になりたいと望みます。この欲求は、創造者から被造物へ直接的に伝えられたものではありません。被造物が創造者に似て、何を意味するかを理解したとき、被造物の中に生まれるのです。

 

つまり、このマルフートの中の欲求――これは自立的であり、彼女(マルフート)の中で直接的に創造者から生じたものではありません。したがって、マルフートは「被造物」と呼ばれ、それまで存在しなかった欲求であり、それは被造物自身から生まれた新しいものです。もしそれがホフマーやビナのように、創造者から直接的に来ていたなら、それは単に創造者によって創られ自動的に作動するシステムになるだけで、「被造物」とは呼ばれなかったでしょう。しかし、そうではありません。

マルフートには、創造者から直接的な光(直達光)の道を通って生み出されたのではない、これまで存在しなかった欲求が現れます。したがって、これらの4段階――0、1、2、3――は直達光、創造者からの直接的影響の4段階と呼ばれます。

そしてこの段階、マルフートはもはやこの4段階の中にはありません。それは結果であり、正確に言えば「間接的な」結果であり、このようにしてマルフートの中の欲求は新しく、被造物自身から生まれます。

 

被造物は創造者と同じになりたいと望みました。何においてか?それは行為において彼に似ること――与える意図で受け取ることです。与えるために受け取ることは与えることと等しく、それは根源段階、ゼロ段階と等しいのです。マルフートは「与える」とはどういうことかを理解し、そこから「与える者になる」こと、その経験も理解しました。

つまり、もし第三の段階を分ければ、その中にも二つの半分が見られます。一つは第一段階の1と2、すなわち創造者のために受け取る行為。この行為はビナの中で生まれ、ゼーイール・アンピンのロシュ(頭)として自動的に機能します。下部、ゼーイール・アンピンの第二部分では、「では創造者とは誰か、もし彼がこのように振る舞うなら?」という気付きが生まれるのです。そしてここから、マルフートの「創造者と同じになりたい」という欲求が生まれます。

創造者と同じになるとはどういうことか? それは、ケテルの上部と等しくなることです。つまり、マルフート――彼女はこのレベルに上がりたいと願います。これが「自分の根源に向かうこと」と呼ばれます。ただ光に向かうのではなく、満たし、欲求を満たす光ではなく、その光の根源に向かうのです。

このすべてから分かるのは、光――それは私たちを満たし、正し、すべてへと導き、最終的にはその根源へと導きます。つまり、光がマルフート、エゴイズムにおよぼす影響は、被造物を光自身よりも高い場所へと引き上げるような働きなのです。

 

 


 

質問:マルフートの新しい性質、それは独立した願望だと言いました。しかし、創造者の初期の思考では、マルフートの独立性もやはり創造者由来であって、マルフート自身由来ではないのでは?

独立とは、元々自分の中にない行為であって、それを自分の努力によって獲得することを指します。つまり、こういう質問です:「もしマルフートが何か別のものを目指したら、それを手に入れられるのか?」いいえ、私たちには唯一の可能性――創造の目的に向かうか向かわないかだけです。この点については自由意志はありません。

私はこの創造の目的へと前進する動きそのものから完全に離れる自由意志があるでしょうか?その自由意志はありません――誰もが幸福へと「杖で」追い立てられます。逃れる道はありません。私もあなたも人類全体も。すべての苦しみ、特に今の時代には、明確になりますし、そのすべてはこのために降りてくるのです。

つまり、自由意志はあなたが問うような意味合い(あるのか、ないのか)にはありません。どちらへ進むかや、どう進むかに関してでもありません。唯一、自由意志があるのは、「私は目的に自ら早く向かおうとするのか、後ろから杖で駆り立てられるのを待つのか」だけです。叩かれてから賢くなるのを待つのか、それともやはり自分自身(再び、自分自身で)その目的へと進むのか――どちらにしても私たちは強制されるのです。自発的に、つまりグループの助けを借り、自分自身に自己暗示や説得をかけてすばやく本来のものへと向かうのか、それとも叩かれてから賢くなるまで待つのか――それでも結局グループを自分の周りに作り、やはり必要なものを目指すことになる、ということです。

つまり、すべては怠慢の時間次第です。やりたくなければ、もう少し長く立ち止まる――さらにいくつかの打撃を受けることになるでしょう、そうでなければ少なくて済みます。その打撃は壊滅的で恐ろしい――破壊、死、疫病、何でもありえます。

逆に、素早く前進し、自然の打撃――苦しみによって私たちを推し進めるもの――より先に進めば進むほど、より快適に、より良い気分で過ごせるのです。同じ段階を「インスピレーション、高揚、充足感」と共に通過する。なぜなら、あなたが次の段階を欲すれば、それを受け取ったときそれは快楽として感じられる。しかし、欲さなければ、強制的に進められる――それは苦しみとなる。この違いだけで私たちの人生の感触は大きく変わるのです。あなたの自由はここにしかありません――どの道で進むのかを選ぶだけです。打撃ごとに待つのか、先に賢くなるのか。それだけです!


 

恥と制限(ツィムツム)

 


 

第一段階でホフマーの光が受け取りの意志を満たすとき、それはその本質――与える性質も与えます。だからこそ、充足を体験した後、第一段階は「受け取り」から「与える」欲求へと変化するのです。

同じことが、第三段階を経た後の第四段階にも起こります。ホフマーの光で満たされた後、それもやはり、光の性質と同じく「与えたい」と思い始めます。その結果、第4段階からは受け取りの欲求が消えます。

光は、器が満たされた時に「与える欲求」を器に与えます。なぜなら、器は光から得る快楽だけでなく、「与え手の欲求」も感じ取るからです。

創造者は、受け取ることによる快楽だけを感じる存在も創造できました――世の中の発達していない「受け取り」の意志を持つ人や、子供たち、あるいは鈍感で精神的に不安定な人たちのように。

私たちが子供から大人へと成長したとき、私たちは「受け取ること」を恥ずかしいと感じ始めます。この感覚はとても発達しているので、どんな痛みよりも恥の痛みの方を避けたいと思うほどです。この属性は、私たちが自分の本性――すなわち受け取りの意志――を超えられるように創造者によって創られたのです。

「受け取っている自分」を恥じらうためには、自分が受け取っていることを感じなければなりません。それは「与え手が存在し、その存在を感じる」場合のみ可能です。ホスト(与え主)を感じなければ、恥ずかしいとは思いません。しかし、彼が目の前にいたら、私は恥を感じるのです。

私は直接受け取ることができません。なぜなら、与え手に対して自分も何か返さなければならないからです。それが「単なる受け取り」ではなく「取引」となります。そうすれば私もまた「与え手」となり、相手も私から何かを受け取るのです。

創造者の感覚は、マルフートの中で受け取りに伴う激しい痛みを目覚めさせ、マルフートはもう二度と「自分のために快楽を受け取る意志」は使わないと決断します。この決断が「制限」(ツィムツム)と呼ばれます。

「最初の制限」という名前は、これが初めてこのようなことが起きたことを示しています。


制限へ至る光の進展

光を受け取らないことで、マルフートはもはや受け手ではなくなりますが、まだ創造者には何も与えていません。彼女はまだ「光のように、快楽を与える者でありたい」という欲求を実現できていないのです。創造者から快楽を受け取らないことで、マルフートは「姿の同一性」に到達しません。したがって「最初の制限」は終わりではなく、「与える力を獲得するための手段」なのです。

創造者の創造目的は、マルフート――被造物――が快楽を受け取ることでした。その「創造の思い」は不変です。だからこそ、創造者はマルフートに「快楽を受け取るよう」圧力をかけ続けます。マルフートは、「制限」だけでは「与え手の地位」に到達できないと感じますが、では「受け取る」しかない被造物が、どうやって創造者に何か「与える」ことができるのでしょうか?

マルフートが自身の「上位9つの属性」(マルフートが内側で感じる創造者の属性)を感じる時――それは創造者がマルフートに向かう関係のあり方です――、マルフートは「どうすれば自分が創造者に返すことができるか」を理解し始めます。彼女は「もし自分が光を受け取り、それを楽しみ、それを創造者が自分の喜びを喜ぶから受けるのなら、それは自分の受け取りが与えることと等しくなる」と決心します。

受け手が「与え手を喜ばせるために」快楽を受け取る時、受け取りの行為は「与える行為」となります。もしマルフートが創造者が用意した全ての光(快楽)を受け取れば、それは創造者がマルフートに与えているものと同じだけ、創造者に返し与えていることになります。

例:客と主人がいる。主人は客の望むご馳走を用意する(欲求は光と量的にも質的にも完全に一致している。なぜなら快楽―光が、そのような器―欲求を生み出したから)。しかし客はとても空腹であっても、主人の存在を感じると「恥」を感じ、その結果食べることができません。恥は「自分が受け取り手、主人が与え手」と感じることから生まれます。その恥は非常に強く、もはや客は食べることができなくなるのです。

しかし、主人は「あなたのためにすべて用意してある」としきりに勧め続けます。するとついに、主人が自分が食べることで喜ぶのだと気づき、客は「何度か快楽を断った後に食べれば、それは主人に対する親切(好意)だ」と考えます。こうして客は「与え手」となり、主人は受け手となります。

空腹や快楽への欲求はカバラでは「器」と呼ばれます。創造者から発する快楽は「直達光」と呼ばれ、それを退ける力は「スクリーン」と呼ばれます。スクリーンから拒絶された光は「戻る光」と呼ばれます。スクリーンの力――つまり「自分のためには享受せず、創造者のためにだけ快楽を取る」力によって、器は自身の受け取りの欲求と対峙できます。「器が光を拒絶する」とも言えますが、より厳密に言えば「器が自分自身のために快楽を得ることを拒絶する」といえます。


光を拒絶するスクリーン

器は創造者に光を返すことはできませんが、意図だけを変えることができます。創造者を喜ばせたいという意図、私たちが「戻る光」と呼ぶものは、単に「快楽」の同義語にすぎません。直達光は創造者が被造物に与えたい快楽と同じです。「戻る光」は被造物が創造者に与えたい快楽です。

器(客)が「自分のためには受け取らない」と確信したとき、彼は「戻す光の大きさ(どれだけ創造者を喜ばせたいか)」を吟味します。それから自分の前にある豊かさ――すなわち直達光、主人が客のために用意したごちそうと快楽――の中から「どれだけなら創造者(主人)を喜ばせるために食べられるか」だけを受け取ることを決めます。

カバリストとは、創造者からやってくる光と彼が行うすべての作用を感じる人たちですが、彼らが霊性について書く時には技術的な用語でその感覚を伝えます。だから、もし読者が本に記されたようなスクリーンと力を持っていれば、その行為を自ら繰り返すことで、言葉を感覚へと翻訳することができるのです。