レッスン31 マーセル - 自然の法則

レッスン31 マーセル - 自然の法則

レッスンの内容
教材

(編集中)

パート1 マーセル(十分の一) - 原典からの抜粋


1.そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

創世記28章22節


2.あなたは毎年、畑に種をまいて獲るすべての産物の十分の一を必ず取り分けなければならない。

申命記14章22節

 


3.地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。

レビ記27章30節


4.「あなたは十分の一を捧げなければならない。」これは、「十分の一を捧げるならば裕福になる」と解釈されました。しかし、賢者たちは、この聖句の戒めをロ・リシュマ(トーラーのためではない)の観点で、つまり、施しをすることで見返りを得ようとする意図で、どのように説明したのでしょうか。
それについては、「我々は行い、そして聞こう」と言われたように理解すべきです。つまり、行為を通じて「聞く」という状態に到達するのであり、行為が意図に影響を与えるということです。

したがって、人が十分の一を捧げるとき、つまり与えるという行為をするとき、「裕福になる」ことを目指すべきです。ここで言う「裕福」とは、与えたいという欲求と熱望を報酬として得ることです。つまり、行為が与えることであり、受け取ることではないように、思考と意図もまた与えることのみに向けられ、見返りを求めることがなくなるということです。

また、「あなたは十分の一を捧げなければならない」とは、行為において「十分の一を捧げる」ことであり、それを実践すれば「裕福になる」、つまり、意図もまた授与のためのものとなり、受け取ることを目的としない状態に報われることになると言えます。

そしてその後、何が起こるのでしょうか?「そうすれば裕福になる」。なぜなら、クリエーター(創造主)から「富」と呼ばれる歓喜と喜びを受け取ることは、形態の同等性を達成する前には不可能だからです。その時、人の意図もまた授与することのみを目的とするように報われたなら、「裕福になる」と呼ばれる富を授かることになるのです。

 ラバシュ『さまざまな記録』記事第536番「あなたは十分の一を捧げなければならない」

 


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テキスト

要点は、形態の同等性を通じてスピリチュアリティに入ることができるということです。形態の同等性は、私たちがクリエーター(創造主)のように与える状態にあるときに生じます。私たちは、グループでの作業を通じて、上層の力によって徐々に授与のための属性へと変わることができます。要するに、それは可能なのです。簡単ではありませんが、可能なのです。

しかし、どこで活動しようとも、マルフットそのものに属するものを是正することはできません。マルフットのすべての部分をビナへと引き上げることはできますが、「マルフットのマルフット」、つまりマルフットそのものは除きます。そして、この是正できない部分を、カバラの知恵の普及、世界の是正のために捧げなければならず、それ以外の用途に用いてはなりません。

つまり、私たちは働き、収入を得ます。どのように稼ぐか、どれほど稼ぐかに関係なく、人生で得たすべてのものから十分の一、すなわち10%をカバラの知恵の普及のために、つまり世界の是正のために捧げなければなりません。なぜなら、私たちが何をしようとも、人は決して90%以上を授与のために捧げることはできず、残りの10%は決して授与のためにはならず、有益な結果をもたらすことはないからです。したがって、最初から収入の10%を取り分け、それをカバラの知恵の普及、世界の是正のために捧げる必要があります。これこそが「十分の一(マーセル)」と呼ばれるものなのです。

マイケル・ライトマン博士、カバラの毎日の授業より(2021年9月4日)


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テキスト

質問: 十分の一を分けるとき、授与の意図に集中する必要がありますか?「裕福になるために」と書かれていますが、これはどういう意味ですか?

ライトマン博士:「もし自分が物質的なものの10%を分けるならば、それはマルフートに対応し、それを世界の是正のための影響力として捧げることになります。すると、それは自分を世界全体の是正へと近づけ、結びつけます。これが『裕福になる』と呼ばれるものです。なぜなら、その10%を通じて、世界全体を獲得するからです。」

(カバラの毎日の授業より 2021年9月4日)


5.寄付や十分の一は、特に財産、つまり人が獲得し所有したものから捧げられ、それから十分の一が与えられます。したがって、「獣」の性質に属するものとしての家畜の十分の一があり、これは魂に関係します。また、「人」の性質に属するものとしての樹の実からの十分の一があります。

十分の一を捧げる時期は、果実が熟したり、種が植えられたりして、それが確実に自分のものとなったと認識できる時点から始まります。

ラバシュ『さまざまな記録』記事第904番「人は野の樹木である」


6.十分の一を捧げること(収入の10%を与えること)は、「知識なしに行うこと」に該当し、この十分の一を「聖なるもの」とします。これによって、人は他の場所で富を得る、つまり、「富」と呼ばれる知識を得ることになります。

この理由により、人は九つの特質を持つことになります。つまり、これら九つの特質の中で知識を受け取り、十番目はクリエーター(創造主)に捧げられます。言い換えれば、人は完全にクリエーターのためにあり、その部分については何の認識も持たないのです。だからこそ、それは「主へのもの」と呼ばれます。地主が受け取る特質、「彼のものとなる」と呼ばれるものは、所有者が得ることができるものを指します。

これが、「万軍の主は言われた。『どうかこのことでわたしを試してみよ。わたしが天の窓を開き、限りない祝福を注ぐかどうか』」の意味です。「このこと」とは、先に述べた「富」のことです。もしあなたがこの理(上記の考え)を受け入れるならば、世界のあらゆる富があなたに流れ込んでこないでしょうか?

ラバシュ『さまざまな記録』記事第817番「『貧しい者』の意味」


7.マーセル(十分の一)の戒めを通じて、自分の分に満足するという特質が損なわれることなく、それどころか常に自分が何の豊かさにも欠けていないと感じられるようになります。これがマーセルの力であり、そのとき、あなたは真に「裕福な者」と呼ばれるようになります。

聖典には、「誰が裕福な者か? 自分の分に満足する者である」と書かれています。したがって、マーセルを捧げる際には、この意図を持つべきです。つまり、「裕福になるために」とは、この戒めの聖なる行為を通じて、自分の分に満足するという特質を得ることを意味します。それは何かを請い求めることではなく、むしろ、自分の分に満足するという段階に報われ、「裕福な者」と呼ばれるようになるためなのです。

マオル・エイナイム、パラシャ・レエ

 


8.人は十分の一を捧げることを決してやめてはなりません。それを正しく捧げるべきであり、畑から、家から、そして世の中で手に入るあらゆるものから捧げなければなりません。

光のメノラー


パート2 上層の構造

「カバラの知恵への序文」の項目33-35(英文) >>


33) これから、内面の光と周囲の光が互いに衝突し合い、スクリーンの浄化と厚みの最終段階の喪失を引き起こす問題を明確にします。これらの二つの光は対立しているが、AKの頭部のマルフットにあるスクリーンを通じて接続されています。

解釈: AKの頭部のぺ(口) での「打撃による結合」、マルフットにあるスクリーンと呼ばれるぺは、AKの内面の光をそれが持ち上げた反射光で覆う理由でもあり(項目14参照)、またAKの周囲の光が出る理由でもあります。第四段階を覆う光を待たせたため、その光は周囲の光の形で現れました。

言い換えれば、反射光が覆うことができないその光の全体、第四段階自体のようなものが外に出て周囲の光となったということです。したがって、ぺのスクリーンは、内面の光の理由となるのと同様に、周囲の光の理由でもあります。


34) 私たちは、内面の光と周囲の光は、対立する行動でスクリーンに結びついていることを学びました。そして、スクリーンが反射光を通じて、それに覆われた上の光をパルツフに引き込む程度まで、周囲の光をパルツフに覆わせないようにします。

そして、周囲の光として外側に残る光の部分は非常に大きく、AKを覆うのを妨ぐスクリーンにより、その光はパルツフに覆うことを望んでいるため、そのスクリーンを破りたいと考えます。そのため、スクリーンの厚みと硬さが覆いたいと考える周囲の光を妨げる際に、それは結合している最中に上層の光を叩くようになります。周囲の光とスクリーンの厚みによる打撃が互いに打ち合うことを、内なる光と周囲の光の衝突と呼びます。

しかし、それらの間の衝突はパルツフのグフでのみ発生しました、光が器に服する時、周囲の光が器の外に残ることが明白です。しかし、頭部の十個のセフィロトにはこの衝突は適用されません、そこで反射光はまったく器と見なされるのではなく、単なる薄い根と見なされます。このため、そこにある光は、器に用意されない内面の光とは見なされず、そのため外に残る光が周囲の光として識別されません。したがって、頭部の十個ののセフィロトには内面光と周囲の光の間の打撃はありません。

光がぺからグフの十個のセフィロトに拡張され、光が器に服される際には、器の内面の光と外に残った周囲の光の間に打撃があります


35) この衝突は、周囲の光がスクリーンをすべての厚みを浄化させ、頭部のぺの上の根に上昇させた時まで続きました。これは、上から下へとすべての厚みを浄化し、「グフのスクリーンと厚み」とも呼ばれ、頭部のマルフットのスクリーンだけに根が残ったことを意味します。言い換えると、内面の光と周囲の光を分離する厚みが上から下へと浄化され、内面の光と周囲の光の間の区別がまだ起こっていない下方への厚みだけが残ったということです。

形態の同等性がスピリチュアル的なものを一つにすることが知られています。したがって、グフのスクリーンがグフの厚みをすべて浄化し、頭部のぺのスクリーンと等しくなり、その形態がロッシュのスクリーンと同等となり、それが組み込まれて実際には一つとなりました、分け隔てるものが何もないからです。これは、グフのスクリーンがロッシュのぺに上昇したと見なされます。

グフのスクリーンがロッシュのスクリーンに組み込まれると、それは再びロッシュのぺのスクリーンでの打撃による新たな結合に組み込まれ、新しいレベルの十個のセフィロトがそこに現れ、AKのABまたはAKのパルツフ・ホフマと呼ばれます。これは、最初のAKのパルツフの「息子」および帰結として見なされます。