レッスン13. 本格的なカバラの叡智による「祈り」
心臓の働きについての授業。
カバラにおける祈りは、単なる本から読まれる言葉ではなく、心の働きとして説明されています。これは内面の明確化の過程であり、自分が本当に望んでいるものや、私たちの欠如—ヘブライ語でhisaronと呼ばれるもの—が創造主と同じ形であるかどうかを調べます。
このような内面的な明確化を通して、私たちは創造主が正しい欠如を与えてくださるように、その助けを求める必要性を築くことができます。
レッスン #13
祈り
「…“願い”とは、人が自分に足りないものを感じているときのことです。これは特に心の中で起こることであり、口で何を言うかは重要ではありません。“願い”とは、人が自分に必要なものを求めることであり、人間の必要はすべて口ではなく心の中にあるからです。したがって、人が口で何を言うかは重要ではありません。むしろ、創造主は思いを知っています。ですから、上方で聞かれるのは心が求めるものだけであり、口が求めるものではありません。口には満たされなければならない不足はないからです。」
-- ラバシュ、記事 #27、1991年
「この理由から、祈りには準備が必要です。口と心が同じであるかのように祈りに慣れることが求められます。そして、心は慣れることによって納得するようになり、受け取ることは分離を意味し、最も重要なのは“生命の命”との一体化(付着)であり、それは授与であると理解するようになるでしょう。」
-- バアル・ハ=スラム、『シャマティ』記事 #122
「…したがって、人が祈ろうとするときは、祈りのための準備をするべきです。この準備とは何でしょうか?」
この準備については、それぞれが自分のために行うことで、何を求めるべきかを知るためのものと解釈できます。つまり、人は自分に何が必要なのかを知る必要があるのです。
-- ラバシュ、記事 #27、1991年
「私たちが授与の欲求を欠いているという欠乏(不足)を獲得する唯一の助言は、祈りによるものであり、祈りは人と不足の“媒介”です。つまり、人は自分に不足がないことを創造主に祈り、その不足を持ちたいと願います。よって、“欠乏”と呼ばれるクリは、感覚における欠乏であり、それ自体の欠如を感じていません。そして祈りとは、創造主が彼に光、つまり彼の欠乏を満たすものを与えてくださるように願うことです。したがって、満たしは欠乏によって存在します。ですから、他に方法はなく、創造主に祈って不足を与えてもらうことが必要であり、これがクリと光を結びつけるのです。」
-- ラバシュ、記事 22、1986年
「…人の罪は、創造主に助けを求めなかったことです。もし彼が助けを求めていたら、必ず創造主から助けを得ていたでしょう。しかし、人が『私は助けを求めたが創造主は私を助けてくれなかった』と言う場合、こう答えます。人は信じるべきです。創造主は祈りを聞く存在であると。“あなたがすべての口の祈りを聞く者である”と書かれていますから。もし本当に信じていたなら、彼の祈りは完全なものとなり、創造主は人が心から創造主の助けを切に願い、完全な祈りをする時、その祈りを聞いてくださるのです。
しかし、もし彼の祈りが常に唇にないのなら、それは創造主が助けてくださるという真の信仰がないということです。そして創造主がすべての求める人々の声をお聞きになること、小さき者も大きき者も、彼の前では等しいという真の信仰がないということです。つまり、誰にも答えてくださるのだということです。こうして、祈りは未完成なのです。」
-- ラバシュ、記事 4、1988年
「…祈りは完全な祈りでなければならず、心の底から出るものであるべきです。つまり、世界中で自分を助けてくれるのは創造主ご自身以外には絶対にいないと百パーセント知っている状態です。
けれど、どのようにして、自分を助けるのは創造主ご自身しかいないと知るのでしょうか? それは、持っている全ての力を尽くしても何の助けにもならなかった時、初めてその認識に至ることができるのです。ですから、「創造主のために」という目的に到達するために世界中でできるあらゆることをしなければなりません。そうして初めて心の底から祈ることができ、その時創造主はその祈りを聞いてくださいます。」
-- バアル・ハ=スラム、『シャマティ』 #5「リシュマとは上からの覚醒」
「…もしリシュマ(彼女のため)が上からの贈り物なら、ならば、それを得るために人が努力し、苦労し、あらゆる手段や修正を施しても、創造主次第なら全く意味がないのではないでしょうか?
私たちの賢者たちは『あなたはそれから自分を解放する自由はない』と言っています。むしろ、下からの覚醒をもたらさなければならず、これが“祈り”とみなされます。
けれど、祈りなくしては得られないことを知らなければ、本当の祈りはできません。
ですから、リシュマを得ようとして行う行為や手段がその人の中に修正された器(クリ)を生み出し、それがリシュマを受け取りたいと望むようになるのです…
-- (バアル・ハ=スラム、『シャマティ』 #20「リシュマ」)
…それから、すべての行為と手段を尽くした後、本当に自分の行為が何の助けにもならなかったことが分かったとき、初めて心の底から誠実な祈りを捧げることができます。そしてその時、創造主はその祈りを聞き、リシュマという贈り物を与えてくださるのです。」
-- バアル・ハ=スラム、『シャマティ』 #20「リシュマ」
「…人は自分自身の力だけでは自己受容(自己愛)から抜け出すことはできません。これは創造主が人間に与えた本性であり、それを変えることができるのは創造主ご自身だけです。言い替えれば、創造主が被造物に受け取る欲求を与えたように、後に授与の欲求を与えることもできるのです。
しかし、“クリ(器)なしに光はなく、欠乏(不足)なしに満たしはない”という法則に従い、まず最初に欠乏を獲得しなければなりません。つまり、この“授与の欲求”というクリが自分に欠けていると感じなければなりません。…
-- (ラバシュ、記事 29、1987年)
…感覚についても、もし人が“授与の欲求”というクリ(器)を持っていないことによって何を失っているのかを知らなければ、どんな欠如も感じることはできません。この理由のために、人はなぜ自分に授与の欲求がないのかを内省しなければなりません。
失ったものの大きさに応じて、人は悲しみや苦しみを感じます。本当に欠乏がある場合、つまり創造主のために働く力がないことを心の底から創造主に祈ることができるなら、その時、クリ=本当の欠如を持つことになり、それこそが祈りが聞かれ上からの助けが与えられる時です。私たちの賢者は「清めに来る者は助けられる」と言っています。
-- ラバシュ、記事 29、1987年
「…祈りには三つの条件があります:
彼(創造主)が自分を救うことができると信じること。たとえ自分が同時代の誰よりも最悪の状態にあっても、“主の御手は短すぎて救えないだろうか?” もしそうでないなら、“地主は自分の器を救えない”となってしまう。
もう他に選択肢がなく、自分にできることは全てやったが、状況は全く好転しなかった…
(バアル・ハ=スラム、『シャマティ』 #209「祈りの三条件」)
..3. もし助けてくれなければ、生きているより死んだ方がましだと思うほどである。祈りとは「心が失われる」ことである。人が失われれば失われるほど、彼の祈りも大きくなる。明らかに、贅沢が足りない人は、死刑の宣告を受けてあとは執行されるだけで、すでに鉄の鎖につながれ、人生をかけて嘆願している人とは比べものにならない。その人は絶対に休んだり眠ったり、瞬時たりとも自分の命を祈ることから気をそらしたりしない。」
-- バアル・ハ=スラム、『シャマティ』 #209「祈りの三条件」