10人グループ講座 - レッスン6-8, 11、10人グループでのつながりの原則
10人グループ講座 - レッスン6-8、11
10人グループでのつながりの原則
1. 1984年の記事『社会の目的 その1』(ラバシュ)
私たちは、バール・ハスラムの道に沿いそのメソッドに従って、その道を辿ることを望む者たちのための社会を築くよう、ここに集いました。それにより、獣に留まることなく人としての段階に上がっていきます。それは、賢者たちが「わが羊、わが牧場の群である汝ら。汝らは人なり」(イェバモット、第6章1節a)という聖句についていうがごとくです。それについて、ラシビは「汝らは『人』と呼ばれるが、偶像崇拝者は『人』と呼ばれない」と言っています。
2. 1984年の記事『社会の目的 その1』(ラバシュ)
これが、一人ひとりが「クリエーターに授与する」という精神に基づいた社会を築き上げるため、私たちがここに集うという理由です。そして、クリエーターへの授与を成し遂げるためには、まず人への授与、すなわち「隣人愛」から始めなければなりません。
そして、隣人愛は自分自身を無にすることなしにありえません。つまり、一人ひとりが自らを低く感じる一方で、クリエーターが「私たちの間にシェヒナ(神性)を宿らせる」という目的だけを持つ社会に身を置くよう、その機会を与えてくれたことを誇りに思うべきなのです。
原則 その1:
私たちは常に、人為的に、ミーティング(枠組み)の重要性を高めなければなりません。それがあって初めてどんな目標も達成できるのだということを理解しなければなりません。
3. 1984年の記事『社会の目的 その2』(ラバシュ)
そのため、社会は、その目的を達成するよう満場一致で同意する個人により構成されなければなりません。そうすれば、全員が一つになり、一体化した大きな力となって、自らに対して戦うことができるようになります。こうして、各自が目的を達成しようする大きな欲求に基礎を置くことになるのです。
互いに統合するためには、一人ひとりが他者の前で自分を無化するべきです。無化は、それぞれが友の欠点ではなく、長所を見ることで可能となります。しかし、自分が友より少しでも優れていると思う者は、もはや皆と一体になれません。
4. ラバシュ「議会の議題 - 2」、1986年
私たちが取り組まなければならないことの一つは、スピリチュアル的なものを理解することです。
5. 「私たちが必要とする主なもの」(ラバシュ)
私たちに不足しているもの、つまり務めを遂行するための燃料をなくさせる主たるものは、最終目的に対する重要性です。すなわち、誰に対して授与しているのか知り、奉仕できることに対しする感謝の仕方をわかっていないのです。また、私たちはクリエーターの偉大さに対する知識を欠いています。つまり、王に仕えることの特権があることがどれだけ幸せなことなのかを知ることができません。なぜなら、私たちはクリエーターの偉大さを知るための手段を何ももっていないからです。
原則 その2:
10人グループにおける平等の構築に取り組むこと。
6.「カバラの知恵と哲学」(バール・ハスラム」編集中
「愛の法則は、大いなる者と小さき者との間には描くことはできません。なぜなら、真実の愛し合う者は、互いの間に同等性を感じる必要があるからです。」
7.書簡第42番(ラバシュ)編集中
「そして民は宿営した。ひとりの人のように、ひとつの心で。」と書かれています。
その意味は、すべての人が一つの目的を持っていたということで、それはクリエーター(創造主)のためになることでした。
ここで理解すべきは、「どうしてひとりの人のように、ひとつの心でいることができるのか」ということです。なぜなら、賢者たちが言ったように「顔が互いに似ていないように、その意見も互いに似ていない」からです。ならば、どうしてひとりの人、ひとつの心になれるのでしょうか。
答え:
もし、私たちがそれぞれ自分自身の必要のために気遣うのであれば、ひとりの人になることは不可能です。なぜなら、その意見は似ていないからです。
しかし、皆が自分自身の領域(自己の権限)を捨て、ただクリエーターのためだけに気遣うならば、もはや個々の意見は存在せず、すべての個別性が消え去り、全員が「唯一者の領域」に入るのです。
原則 その3:
それぞれの友人が個性を失わないよう、その個性を大切にしなければなりません。
8.「自由」(バールハスラム) 編集中
したがって、一人ひとりの顔が異なるように、それぞれの意見も異なります。この地上に、意見がまったく同じ者は二人といません。なぜなら、それぞれがその祖先から遺されたすばらしく崇高なものを持っていて、他の人にはその欠片すらないからです。
そのため、それら祖先からの遺産はすべて個人の財産と見なされ、社会は個々のもつ趣(おもむき)や精神性が環境によってぼやかされないよう注意を払うべきです。さらに、各個人はその遺産をそのままの状態で維持しなければなりません。そうすることで、見解の相違や対立が永遠に残り、知恵に対する批判と進歩を確実に永続させられます。そこに、人類の利点があり、永遠の真の欲求があるのです。
原則 その4:
個人的な手本は、友人とつながる最善の方法です。
9.1984年の記事第2番「友愛に関して」(ラバシュ)
心の内にある友愛をオープンにしなければならない、とも言えます。なぜなら、友愛を明らかにすると、友の心を仲間に向けさせ、皆それぞれが友愛を実践していると感じられるからです。ここに、この方法によって得られる恩恵があり、より強く友愛を実践する力が得られます。なぜなら、それぞれの愛の力が融合し一つになるからです。
ビデオクリップ >> 良い手本となっているかどうか、どうすればわかりますか?
テキスト:
質問: 友人たちに対して良い手本となっているかどうか、悪い手本ではないかどうか、どうすればわかりますか?また、友人の目から見て素晴らしい人として自分を外見上見せることが正しいのでしょうか?
マイケル・ライトマン博士:自分を偉大な人物として見せかけるのではなく、目標に惹きつけられ、その啓示を求め、それに投資する人物として見せなさい。あなたは彼と同じレベルにいることを示しますが、あなたにとって最も重要なのは前進することであり、他の何よりもそれが重要であることを示さなければなりません。
「悪い目」を恐れる必要はありません。彼らのために意図的にそうしなさい。
人生において、人々は「自分を隠さなければならない」と考えますが、それは正しくないのです。
質問:友愛において正しく進歩している人の兆候は何ですか?
マイケル・ライトマン博士:彼が時間通りに到着し、準備を整え、意図に集中し、質問をし、回答し、メモを取り、資料を整理し、授業にどのように参加し、様々な役割にどのように参加するかを、皆に示していることです。
彼がどのように自分を表現し、他者を目覚めさせるか——
これらはすべて、グループ内に燃えるような欲望を築くためであり、
そこから全員が自分自身を燃え上がらせ、目標の実現に到達するためです。
原則 その5:
「友人を買いなさい」グループの各メンバーは、友人を買う努力をしなければなりません。
10. 1988年の記事「友人集会から何を求めるべきか」(ラバシュ)編集中
『友を買いなさい』ということについて、『買う』とは支払いをしなければならない、すなわち代価を払うことで相手を買う、という意味に解釈できます。ではその『支払い』とは何でしょうか。それは「労苦」のことです。
例えば、人が美しいタンスを買いたいと望むものの、2000ドル必要で手元にお金がないとします。そのとき、彼は店主にこう言うかもしれません――『現金はないけれど、あなたは労働者を探していると聞きました。私は半月間あなたのもとで働き、その労働を支払いとしてこのタンスを受け取りたいのです』。店主はおそらく同意するでしょう。このように、支払いは金銭でなくても、労働や努力による“対価”で成り立つのです。
同じように、友愛においてもそうです。友を良い面で評価することは大きな労苦であり、誰もがそれに同意するわけではありません。時にはさらに困難なこともあります――例えば、友が自分を軽視しているように見える場合や、他の人から自分についての悪口を聞かされる場合です。そんなときでも人は自分をへりくだらせ、相手を良い面で評価しなければなりません。これは非常に大きな労苦です。しかし、この労苦こそが金銭以上に大きな「支払い」となるのです。
では、もし相手が自分について悪口を言っているなら、どうして彼を愛する力が得られるのでしょうか。悪口を言うのは、少なくとも内心では自分を憎んでいる証拠ではないでしょうか。それでも、なぜ自分をへりくだらせて相手を良い面で評価する必要があるのでしょうか。
答えはこうです――友愛は、隣人愛を基盤としており、その隣人愛を通じてクリエーター(創造主)への愛に至るためのものだからです。つまり、一般に考えられている友愛とは逆なのです。すなわち、隣人愛とは「友が自分を愛すること」ではなく、「自分が友を愛すること」なのです。だからこそ、相手が自分に悪口を言っていようが、そこに憎しみがあろうが問題ではありません。愛することによって修正を要するのは、他ならぬ“自分自身”だからです。
したがって、人が労苦を払い、相手を良い面で評価するとき、それは「下からの目覚め」と呼ばれます。その結果、上から力が与えられ、すべての友を例外なく愛する力が与えられるのです。
これこそ『友を買いなさい』の意味です。すなわち、人は隣人愛を得るために労苦を払わなければなりません。そしてその労苦は「理性を超えて働く」ことによってなされるのです。
11. 「自分のためにラブを作り、友人を買いなさい その1」(ラバシュ)
こうして、友を買うために必要な支払いをするときの真の友情とは、その両方が正確に等しい地位にあり、結果両方が等しく支払う時だということがわかります。これは現実世界におけるビジネスでも同様です。彼らが互いに平等にすべてを差し出していなければ、真のパートナーシップはあり得ません。そのため「あなた自身に友を買いなさい」とは、唯一彼らが平等である時のみ、それぞれが互いに友を買い、そこにつながりが存在し得るからです
原則 その6:
人はそれぞれ、自分の欠点の尺度に従って他人を判断します(「他人を非難する者は、自分の欠点をもってするのです」)。
12. 1990年の記事第19番「トーラーはなぜ『中間線』と言われるのか? その2 」(ラバシュ)
人は『彼以外に他あらず』と信じなければなりません。つまり、人に善行を強いているのはクリエーターだということです。しかし、人はまだ、それを義務付けているのがクリエーターであることを知るのに値しないため、クリエーターは血肉の衣を身にまとい、それを通して善行をなさっています。つまり、クリエーターは後方から振舞われているのです。
言い換えれば、人は相手の顔を見るのなら、その顔の後にクリエーターが立ち、善行をなされていることを信じるべきなのです。つまり、人の後にクリエーターが立っていて、クリエーターが望む善行を強いているということです。したがって、クリエーターは善のすべてをなされているのに、人は目に見えるものを重視し、信じるべきものを重視していません。
13. シャマティ記事第67番「悪から離れよ」(バール・ハスラム)
友人を欺いていると思っている人は、実はクリエーターを騙しているのです。なぜなら、人間の体の他にクリエーターしか存在しないからです。人間が自分自身に関してのみ『創造物』と呼ばれるのは、創造の本質だからです。クリエーターは、人間が自分とは別個に存在していると感じてほしいと願っています。しかし、それ以外は、『全地はクリエーターの栄光に満ちている』のです。
したがって、友人に欺くということは、クリエーターを欺くということであり、友人を悲しませるとき、クリエーターを悲しませるのです。
14. 1990年の記事第19番「トーラーはなぜ『中間線』と言われるのか? その2 」(ラバシュ)
私たちはこれを、アリが書いているように解釈すべきです(タルムード・エセル・セフィロト、第13部、項目152)。『セアロット(髪の毛)の問題があります。それは光を覆うので、それに値しない限り、光を楽しむことができません。なぜなら、それらは傷つける可能性があるからです。』重要なのは、クリエーターが私たちに善行を行いたいという願望と切望を与えてくれたと信じなければならないということです。そして、人がそれに値しない限り、クリエーターが善行をするように強制していると感じてはなりません。これが、クリエーターが衣の中に身を隠す理由であり、この衣はロー・リシュマ(トーラーのためではない)と呼ばれています。言い換えれば、クリエーターは時に友人の衣の中に身を隠すのです。
原則 その7
一般的な場でも、直接的・個人的な方法でも、公の場で友人に対する批判を述べないこと。
15.「シャマティ」第62番「降りてそそのかし、上って告発する」より (バール・ハスラム) 編集中
「しかし、清らかさの道で働く者は、他人を告発することはできません。
むしろ、いつも自分自身を告発し、他人については、自分自身よりも良い段階にいると見なします。」
16.1984年の記事第8番「どのようなトーラーと戒めの実践が心を浄化するのか」(ラバシュ) 編集中
「多くの場合、人が他人に説教するのは、『あなたの仲間を必ず戒めなさい』という戒めのためではなく、ただ支配のためだけであることがあります。」
マイケル・ライトマン博士、2022年7月13日のレッスンより
「自分が正しいと思うことを、互いに相手に押しつけようとするほど悪いことはありません。
そんなことをしてはいけません。愛とつながりへの傾向だけを示すべきであり、それ以外は決してしてはいけません。
あなた方の誰一人として、自分がどこにいるのかをまだ理解していません。
あなた方はまだ完全に真実の外にいます。
一緒に授業を学び、節々に入っていきなさい。ただし、議論ではなく、書かれていることを理解するためだけに。
もし誰かが相手を説得したいという欲望を持つなら、それは彼が持つ最悪の悪い傾向(イェツェル・ハラ)です。
友が自分のペース、自分の道で成長できるようにしてあげなさい。
邪魔をせず、ただより多く学び、より多く参加するように促すだけです。それだけでいいのです。」
原則 その8
原則として、会話の境界線をあらかじめ明確にしておくのが最善で、対立につながりかねないとわかっている話題を持ち出さないようにすることです。
17.「社会の目的 その2」(ラバシュ)
したがって、一体になろうとする仲間は平等であるのがよく、平等であれば、友の前で自分を無にできるようになります。そして、軽薄さを許さないように、集団を注意深く見守る必要もあります。なぜなら、軽薄さはすべてを台無しにしてしまうからです。しかし、これは、すでに述べたように、内的なことに関してです。
質問: 内面の作業における「軽率さ」とは何ですか?
マイケル・ライトマン博士:軽率さは非常に広範な概念です。作業を完全に放棄して怠惰になることから、より有益な活動を、より有益ではないが、より快適で、楽で、楽しい活動に置き換えることまでを含みます。
軽率さは、道に反する物事に没頭することから、小さな愚かな事柄まで、あるいは単に思考や説明、欲望において「自由」を許すことまで、様々な形で現れます。
「軽率さ」という用語(ヘブライ語の「カルート・ロシュ」——「軽率さ」から)はどこから来たのでしょうか?——「重い頭」とは、人が常に自分自身を判断し、物事を検討し、思考で満たされている状態を指します。そして「軽さ」とは、彼が適切な職業から頭をそむけ、その後、あらゆる外国の重要でない思考で満たされることを意味します。
これには創造主に対して明確な反逆はないかもしれませんが、単にその人が自分の心をこの物質世界の思考で満たすことを許しているだけです。
(ラバシュの記事の講義より、2012年12月2日)
18.1988年の記事「友人集会から何を求めるべきか」(ラバシュ)編集中
仲間が仲間から助けを必要としている場合、何をすべきでしょうか? 前述のように、友人集会においては、悲しみをもたらす悪いことを話すことは禁じられています。その答えはこうです。人は、自分の心により近いと感じる友人に話をするべきです。そしてその友人が、定例の友人集会ではない時に、社会(仲間たち)と話をします。つまり、その友人は仲間全員と話すことはできますが、定められた友人集会の時間ではなく、助けを必要とする仲間のために特別な集会を開くことができるのです。
原則 その9
全員がグループの精神を強化するために努力しなければなりません。
19.1984年の記事第4番「各自、互いに友を助けよ」(ラバシュ)
私たちは、どうしたら友を助けられるのかを理解しなければなりません。これができるのは、富める者と貧しき者、賢き者と愚かなる者、弱き者と強き者といった違いがあるときに限られているのでしょうか? しかし、皆が賢かったり、富があったり、強かったりする場合は、どうやって助け合うのでしょうか?
気づくのは、皆に共通のものが一つあることです。それは、人の気持ちです。「心の中の気がかりは、他者に打ち明けよ」と言われています。これは、気持ちを高めるには、富も学識も役立たずだからです。
友が落ち込んでいるのに気づき、助けることができるのは、富や学識ではなく人です。「人は自らを牢獄から救い出せない」と書かれおり、友こそが人の気持ちを高めることができます。
これは、友が自分を落ち込んだ状態から生き生きとした状態へと引き上げてくれるという意味です。そうして、人は生きる力と自信を取り戻し、再び豊かさを感じるようになります。そして、すぐにでも目的が達成できるかのように動き始めるのです。
結局のところ、皆が友に気を配り、どうすれば友を助け、友の気持ちが高められるかを考えなければならない、ということです。なぜなら、人の気持ちについては、誰もが友の中に、友が愛を必要とする部分を見つけ、それを満たしてあげることができるからです。
20.ラバシュ 第1巻 第30章「友人集会から何を求めるべきか」1988年 (編集中)
各人は、社会に生命の息吹と満ちあふれる希望をもたらすよう努めなければならず、社会に活気を吹き込み、社会の一人ひとりが『今こそ私は仕事において新しい一頁を始めるのだ』と言えるようにしなければなりません。
つまり、社会に来る前は、創造主の奉仕における進歩について失望していた人も、社会のおかげで生命の息吹と希望に満ちた状態を得ることができた、ということです。これは社会を通じて、確信と克服する力を得たからであり、今や自分が完全さに到達できると感じているのです。
以前は、自分の前に高い山が立ちはだかり、それを征服することはできないと考えていたとしても、今やそれらは確かに強い妨害ではあったものの、まったくの無であり無価値だと感じられるようになっています。
そしてこれらすべては、社会の力から得たものであり、それは各人が社会に励ましと新しい空気を吹き込む状態をもたらそうと努めたからなのです。
原則 その10
私たちは、グループに対する相互責任(アルヴット)の感覚を養わなければなりません。
21.「相互保証」項目8(バール・ハスラム)編集中
タナ(賢者)は「保証」という概念を、2人が船に乗っている例えで説明しました。1人が自分の下に穴をあけ始めたので、もう1人が「なぜそんなことをするのか」と尋ねました。すると彼は「あなたには関係ない。私は自分の下に穴をあけているだけだ」と答えました。それに対して友は「愚か者よ、私たちは一緒に船ごと沈んでしまうではないか!」と言ったのです。
22.「トーラーの授与」項目16(バール・ハスラム)編集中
もし60万人の人々が、自分のための仕事をすべてやめ、ただ仲間の必要が何ひとつ欠けないよう、常に見守ることだけを人生の目的とし、さらに「自分を愛するように隣人を愛せよ」という戒めの本質に従って、心と魂のすべてを込めて愛情をもってそれを行うならば、その時には、誰ひとりとして自分の生活を心配する必要はなくなります。
それゆえ、自分の存在の維持から完全に解放され、容易に「隣人を自分のように愛する」という戒めを果たすことができるのです。