レッスン レッスン20 トーラーの道と苦難の道 「人生の選択」

レッスン20 トーラーの道と苦難の道 「人生の選択」

レッスンの内容
教材

パート1 トーラーの道と苦難の道 

パート2 「人生の選択」良い環境を選ぶ


SLIDE #2

これまで明確にしてきたように、神の摂理には、人をすばらしい最終目的地へ到達させるための2つの道があります。それは、苦しみの道とトーラー(光)の道です。トーラーの道のすべてにおける明瞭さは、ここから導き出されます。預言者や聖人たちが、生きている間に出来事の長い連鎖をたどり、そのあとで啓示され悟った明確な概念があります。それを、あたかも自分の人生の出来事であるかのように、その概念のすべてを活用して恩恵を受ける人が出てくるのです。そこからわかるのは、明晰な頭脳を育てるために経験しなければならないすべての試練が免除されるということです。こうして、時間を節約し苦痛を減らすことができます。


SLIDE #3
これは、医師の助言がどういう治療効果をもたらすかを自分で理解しないうちは医者の指示に従おうとせず、医学を独学しようとする病人に例えられます。その人は、医学を修める前に病気で死んでしまうかもしれません。


SLIDE #4

トーラーの道に対する苦しみの道も同様です。トーラーや預言では、自分で理解することなく受け入れよと助言されています。その概念を信じない人は、人生で起こる原因と結果という連鎖をたどることによって、自分自身でこの概念に到達しなければなりません。これは、いままで見てきたように、自分で選択することなく、この思想や行動につながるよい環境を獲得しようという努力の結果、急き立てられつつ自らの内の悪を認識させていく体験となります。

「自由」(バール・ハスラム)


SLIDE #5

私の解説全体の基礎は、すべての被造物に刻み込まれた受け取りたいという意志であり、それはクリエーターとの形態の不一致です。したがって、スピリチュアリティにおける形態の不一致は物質世界における分離する斧のようなものであるため、器官が身体から分離されるように、魂もクリエーターから分離さるのです。したがって、クリエーターが私たちに望んでいることは、形態の同等性であることは明らかであり、そのとき創造される前と同じように再びクリエーターと結びつくことになります。


SLIDE #6

完全性を発見するには二つの方法があります。それはトーラーの道か苦難の道だということは、すでに述べました。
したがって、クリエーターは人類が原爆や水爆を発明するまでテクノロジーを与えてきました。それらが世界にもたらす運命にある完全な破滅が、まだ世界に明らかでないなら、第三次世界大戦、あるいは第四次世界大戦が待ち受けている可能性もあります。


SLIDE #7

爆弾はその役目を果たし、破滅の後に残る遺物は、個人も国家も自分たちのために必要以上に働かず、他のことはすべて他人のためになるこの仕事を自ら引き受ける以外に選択肢はありません。もし世界中のすべての国がこれに同意すれば、世界中で戦争はなくなります。なぜなら、誰も自分の利益には何の関心も持たず、他人の利益だけを気にするようになるからです。
トーラーの道を歩み、スパイスを受け取るのであれば、非常に良いでしょう。そうでなければ、苦難の道を歩むことになるのです…

「最期の世代」(バール・ハスラム)


SLIDE #8

一般的な考察からわかるのは、社会で守るべきミツヴォット(戒律)は2つしかないということで、それは1)「受け取り」、2)「授与」と呼ばれます。つまり、社会の各メンバーは、その本質上、社会から必要なものを受け取らねばならず、社会の福利のために働くことを通して与えなければならない、ということです。そして、この2つのミツヴォット(戒律)を破った場合、その人は情け容赦なく罰せられます。

「平和」(バール・ハスラム)


SLIDE #9

受け取りの戒律については、過度に調べる必要がありません。なぜなら、罰はすぐさまもたらされるため、なおざりになることがないからです。しかし、それ以外の社会への授与という戒律については、すぐに罰せられないだけでなく、間接的に罰せられます。つまり、この戒律は正しく守られていないのです。


SLIDE #10

そのため、人類は恐ろしい混乱の中で火あぶりになっていて、紛争と飢餓は今日まで絶えることがなく、その影響も続いています。そして不思議なことに、自然は有能な裁判官のように、私たちの進歩に応じて罰を与えています。なぜなら、人類が発達するにつれて、日々の糧を得て暮らしていくことに関する苦痛や苦悩が大きくなっていることを目の当たりにしているからです。

「平和」(バール・ハスラム)


SLIDE #11

なぜ、カバリストはすべての人にカバラの知恵を学ぶよう義務づけたのか? 確かに、カバラには広めるべき素晴らしい点があります。カバラの知恵に従事する人々には、計り知れない価値のある素晴らしい救済があります。彼らは学んでいることを理解していませんが、それを理解したいと切望し、その強い欲求を通じて、魂を取り囲んでいる光を自分自身に目覚めさせます。

「十個のセフィロトの研究への紹介」、項目155


SLIDE #12

しかし、私たちはタルムードの賢者たちによる言葉の中に、ミシュナーの賢者たちよりもトーラーの道を容易にしてくれるものを見い出します。なぜなら、タルムードの賢者はこう述べているからです。「人は常に、ロー・リシュマ(彼女のためでない)にいたとしても、トーラーと戒律を実践すべきである。なぜなら、ロー・リシュマからリシュマ(彼女のために)に至るからだ。それは、トーラーの中にある光が人を善に引き戻すからである


SLIDE #13

つまり、タルムードの賢者たちは、前述のミシュナー『アヴォット』にある苦行の代わりに、「トーラーの中の光」という新しい手段を私たちに授けてくれたのです。この光には、人を善に引き戻し、トーラーと戒律をリシュマで実践させるに足る力が備わっているのです。
この教えでは苦行について触れられておらず、ただトーラーとミツヴォット(戒律)に取り組むことそのものが、光を引き出すとされています。そして、その光こそが人を善へと引き戻し、自らの喜びではなく、クリエーターに喜びをもたらすことだけを目的として、トーラーとミツヴォットに従事させるのです。これが「リシュマ」と呼ばれる状態です。

十個のセフィロトの研究への入門、項目11(バール・ハスラム)


SLIDE #14

人は自分の中に、自ら生み出すスピリチュアリティへの欲求をもっています。言い換えれば、自分に影響を与えたり、何かの欲求を引き出してくれる人が周りにいなく、一人きりであっても、自分で目覚めを受け、クリエーターのしもべになることを切望するということです。しかし、スピリチュアルな目標を達成するというつとめを遂行するためには、より高める必要がないほど大きな欲求でないことは確かです。したがって、欲求を高めるためには、物質的な場合と同じように、外の人々がその見解と精神に従うよう強制するという方法があります。


SLIDE #15

これは、同じようにスピリチュアリティを必要としている人々との絆によって行われます。そして、外の人がもっている欲求が人の中に欲求を生み出すことで、スピリチュアリティへの巨大な欲求を受け取るのです。つまり、自らの内にある欲求に加えて、外の人々によって生み出されるスピリチュアリティへの欲求を受け取ることで、最終目標に到達する巨大な欲求を獲得するのです。

1985年の記事第13番(ラバシュ)


SLIDE #16

しかし、ここまで見てきたように、これは単純なことであり、私たち一人ひとりが守るべきものです。人それぞれに自分の源がありますが、その力はその人が置かれている環境を通してのみ明らかになります。これは、土に蒔かれた麦と似ています。麦の力は、土壌や雨、日光という環境を通してのみ明らかになります。

「自由」(バール・ハスラム)


SLIDE #17

(前略)人には自由があります。それは、自らに良い概念を与えるような環境や書物、導き手を、最初に選ぶことができるという自由意志です。しかし、もしそうせずに、手当たり次第に目の前の環境に入ったり、たまたま手に取った書物が何であれかまわずに読んだりすると(中略)、その人は罰を受けることになるでしょう。それは、その人の邪悪な思考や行いのせいではありません。なぜなら、それについては彼に選択の自由がないからです。そうではなく、良い環境を選ばなかったという点には、人に選択の余地があったことが確かなために、罰せられるのです。


SLIDE #18

ですから、より良い環境を選択し続けるよう努力する人は、賞賛と報いを受けるに値します。しかし、ここでも、それはその人の良い考えや行いによるのではありません。それは人が選択したものではありません。そうではなく、良い環境を得ようと努力したことが評価されます。そしてその環境こそが、人に良い思考と行為をもたらすのです。

「自由」(バール・ハスラム)


SLIDE #19

(前略)私たちには「環境」が必要です。つまり、「完全な信仰を獲得しなければならない」と考える人々からなるグループが必要なのです。これこそが、人を「大衆の見解」から救う唯一の手段です。そのときには、すべての人が完全な信仰を得たい、クリエーター(創造主)に満足をもたらしたいという切望を強め合い、それを唯一の志(こころざし)としていきます。

1985年の記事第37番(ラバシュ)


SLIDE #20(編集中)

(前略)クリエーター(創造主)ご自身が、良い運命の上に人の手を置くとはどういうことかというと、苦しみと痛みに満ち、意味もないこの物質的な人生の中にあって、クリエーターが人に喜びと満足に満ちた人生を与えるということです。
すると人は、たとえそれがひび割れのような小さな隙間に見えたとしても、そこに安らぎを見つけ、死よりもなお苦しいこの人生から逃れる道として、必然的にその場所へと向かうのです。これ以上に「クリエーターが人の手を良い運命の上に置いた」と言える行為はありません。
そして、「選択」とは、ただその(導きに対する)強さを持ち続けるかどうかにかかっています。

「十個のセフィロト研究への入門」、項目4(バール・ハスラム)